2017年11月14日火曜日

2017年追悼記念礼拝での説教

 家内と私は長年、自宅からそう遠くないところにある英国教会、St Jamesの会員です。英本国のみならず、オーストラリア、ニュージーランドその他の、英連邦国では、毎年11月の第二日曜は追悼の日曜(Remembrance Sunday)と呼ばれて、教会だけでなくいろいろなところで、前世紀の二つの世界大戦で亡くなった兵士、一般市民を追悼するための行事が繰り広げられます。一昨日午後、BBCテレビは一時間ほどにわたって、ロンドン市中心部で9千人ほどの人が行進し、記念日に花束を捧げるところを放映しました。行進している人たちの中にはたくさんの老兵の姿もありましたが、みんな90歳以上で、車椅子を押してもらっている人もたくさんいました。一昨日の英国今日の礼拝で私は説教をしてくれるように依頼されました。英語での説教の和訳をここに貼り付けます。
                           14.11.2017
                                                                                                            オランダ、ウーフストヘースト

「私たちの神様は忘れっぽいお方だろうか?」
2017年11月12日、追悼の日曜日、フォールスホーテンの英国教会での説教
エレミヤ31:27−34; コリント後書5:16−21
村岡崇光

前世紀の二度の世界大戦で私たちが誰を、何を失ったかに想いをいたす追悼の日曜日がまた巡ってきました。第一次世界大戦では、一般市民を入れて、英国だけでも1,011,687人の死者です。第二次大戦では450、900人でした。合わせて1,462,587人になります。オランダは第一次大戦では犠牲者は出ていませんが、第二次大戦が終わった時は210,000人の戦死者を哀みました。私たちの聖ジェイムズ教会にはいろいろな国の人が関係していますから、世界全体の戦死者を見ますと、第一次大戦では15,486,153人、第二次大戦では70,000,000人の犠牲者です。客観的に正確な統計はありませんので、申し上げた数字は少なく目に見積もった推定です。第二次大戦の犠牲者数の中にはナチスに虐殺された600万人のユダヤ人は入っていません。また、戦争の直接の結果としての負傷者も含まれていません。私たちクリスチャンはどうしたら良いのでしょうか? 「平和を生み出すものは幸いである。そういう人は神の子と呼ばれよう」とイエスは言われました。ここで言われている「平和」とは、私たちと神の間の平和、あるいは隣人との平和に限らず、武力抗争、戦争が無いことをも指します。私たちは神の子ではないんでしょうか? 神の子になりたくはないんでしょうか? イエスを失望させないためには私たちは何をすべきなんでしょうか? 今やっていることでやめたほうがいいことはないんでしょうか? 私たちが持っている貴重な投票権を正しい候補者のために投じたでしょうか? 大量破壊兵器を生産している会社の株を持っていたら売り払ったでしょうか?
来年は第一次世界大戦終結100年目になります。しかし、たったの21年後には第二次世界大戦争が勃発しました。ドイツの哲学者ヘーゲルは「我々が歴史から学ぶのは我々は歴史から何も学び取っていない、ということである」と言いました。インドのガンディーも同じような発言をしました。二つの大戦を挟む20年の間に人類が学んだのは、敵を前回より能率的に、大量に殺す新しい、素晴らしい技術、武器の作り方を学んだのである」と言ったら皮肉に過ぎるでしょうか? 今年の夏、テルアビブ大学で開かれた会合の席上で、イスラエルのネタニヤフ首相は「大陸間弾道技術は我が国の安全上必須であるのみならず、結構な収入をもたらす産業である」と豪語して満場の熱狂的な喝采を浴びたそうです。こういう人が、先ほど引用しましたイエスの発言された町で国を治めているのです。なんと悲しく、情けないことでしょう!
今朝の礼拝は私たち夫婦にとっては格別な意味を持っています。追悼の日曜日に、日本人で、神学校も出ていない私に説教を依頼されたのは偶然ではないでしょう。私たちはオランダ在住すでに26年、その気になればオランダ国籍をもらえるのですが、敢えて日本国籍のままです。この日には、私たちも戦争で亡くなられた3百万の同胞、その中には私の生まれた広島、また長崎に投下されて即死された11万人の方たちに哀悼の意を捧げます。しかし、日本が始めた太平洋戦争の結果としてそれをはるかに上回る犠牲者が連合軍の兵士たち、アジア太平洋地域の人々の間に出たことを私たちは忘れられません。そういった犠牲者の中には、戦闘中に亡くなられた兵士でない人たちがあまりにも多すぎます。先月第一日曜日の礼拝のなかで、今年私が英学士院から授与されたバーキット賞についてみなさんにお話したときに、私のヴィアドロローサ、「悲しみの道」、は今から40年前の追悼の日曜日、マンチェスターで映画「クワイ川にかかる橋」をテレビで観たときに始まった、と申し上げました。日本軍が英軍捕虜たちにどんなひどい犠牲を不当に強いたかをこの時初めて知ったのでした。6万人を超える連合軍捕虜が日本軍のために泰緬鉄道建設に、恐ろしい、非人間的な状態で、国際法に違反して使役され、3万人ほどの英軍捕虜の中から6,904人の死者を出しました。18,000人余りのオランダ人捕虜の中からは3、000人近くが犠牲となりました。日本政府は、今日に至るも、公式の謝罪も補償もしていません。タイのカンチャナブリに、生き延びた捕虜たちが、犠牲となった12,621人の戦友のために記念碑を建て、一人一人の名前を刻み、一番下に「私たちはあなた方を赦すが、決して忘れることはしない」と短く書いてあります。
みなさんの中には、今日の聖書箇所はどうなっているんだろう、と訝っておられる方があるかもしれません。まことにごもっともです。私の話はエレミヤ31章に焦点を合わせます。先ほど申しました碑文のことを伝え聞いた日本の牧師さんが、「私たちの罪を赦して、あとは忘れてくださる私たちの神様ってなんて素晴らしいんだ!」と言われました。でも、本当にそうなんでしょうか? むしろ逆に、アモス8:7には「主はヤコブの誇りをさして誓われた: 私は彼らの全てのわざをいつまでも、決して忘れない」とあります。「彼らのわざ」とはイスラエルが犯した罪のことです。別な時に、神は「荒野で君たちがどんなに私を怒らせたかを記憶にとどめておき、決して忘れてはならない」と言われました(申命9:6)。私たちの神はアルファであり、オメガである、とも言われています(黙示録1:8)。つまり、歴史の第1章は神が始められ、最終章は神がしめくくられるのです。歴史の神です。私たちが犯し、その後赦していただいたことを記録したものには、当該ページに線が斜めに引いてあるかもしれませんが、訂正液で白く塗りつぶしてはないはずです。わたしたちが真心から告白して赦していただいた過去の罪を神様はまたぞろ持ち出して、私たちをいじめることはなさいません。でも、私たちの罪は消去されることはなく、変な好奇心で覗き見しようとする人の目につかないところにしまってあります。英語のForgive and forgetというのは頭韻を踏んでいて、耳障りはいいですが、聖書の教えには真っ向から対立します。神様は罪を赦して、そのあとは忘れてくださる、と思い込むとしたら、それは安っぽい恵みの教理です。私たちのために十字架上で流されたキリストの血を私たちは安売りは出来ません。この血が流された十字架は神の持っておられる二つの顔を視覚的にはっきり示しています:正義の神と愛の神です。神の正義の要求するところと神の愛の要求するところが十字架の上で交差し、出会ったのです。同じ思想は「慈愛と真実とは歩み寄り、正義と平和は手を取り合った」(詩篇85:10)にも出ています。ここの「真実」とは私たちの過去の罪のことを指しているのでしょう。こういうふうに考えますと、クワイ川のたもとの記念碑に書かれていることは聖書の教えに合致します。記念碑を建てた人たちは、私たちが被った苦しみは決して忘れられないぐらいひどいものであった、と言おうとしているだけでなく、この歴史は永久に忘れてはならない、というのでしょう。
でも、今朝のエレミヤ31章の箇所の最後には「私は彼らの罪を赦し、もはやその罪を思わない」(34節)と書いてあるのと違いませんか、と言われるかもしれません。私たちの神様はぼけ始められたんでしょうか? でも、「もはやその罪を思わない」、というのは一時的記憶喪失のことではなく、ご自分で覚えておられることに応じて行動されない、という意味です。同じことは、パロの高官について「彼はヨセフのことを思わず、忘れた」(創世40:23)についても言えます。ちょっと失念した、というのでなく、意図的に無視した、忘恩のことです。私たちの神様は、慢性のあるいは一時的な記憶喪失症を患われることはありません。神様の記憶力は完璧、無限大です。
ここで「思う」とか「覚える」とか訳されているヘブライ語の動詞は「暗記する、メモリスティックに入れておく」という意味ではなく、覚えているところに応じて行動する、という意味です。私たちは祈りを通して、神様の記憶を呼び覚まし、何かしてくださるようにお願いできます。サムソンは八方ふさがりの場に追い込まれた時、「主なる神様、私のことを覚えてください。もう一度だけ、私のことを覚え、私がこの場を乗り切れる力をください」(士師16:28)と祈りますと、神様は応答してくださり、自分のことを嘲笑って眺めていた観衆は崩れ落ちた劇場の屋根の下敷きになって全滅しました。瀕死の病の床にあったヒゼキヤ王は「主よ、私が貴方様の前でどういう生き方をしてきたか、正直に誠実に生きてきたことを覚えてください」と哀願して、男泣きに泣きました(イザヤ38:3)。すると、神様は、時計の針を後戻りさせて、王の死を15年遅らせてくださいました。主イエスも優れた例を示してくださったのではないでしょうか? 十字架上での辞世の言葉の七つのうちの一つは「エリ、エリ、レマシュバクタニ(わが神、わが神、何故我を見放し給えりや?」(マタイ27:46)でした。
私たちが自分の赦された罪の大きさを思い出す時、神様に本当に感謝することができますし、赦しの道が開かれるように、己を捨てて十字架上で死んでくださったキリストの名を心から褒め称えることができます。
記憶とは教育、学習の道でもあります。エレミヤ31章で「先祖が酸っぱいぶどうを食べたので、子孫の歯が浮くようになる」(29節)という諺が引用されています。そういうことがエレミヤの時代に教えられていたのです。しかし、この諺は「私は妬み深い神であり、先祖の罪を私を憎む者どもには第3代、いや第4代にも報いる」とモーセの十戒にある(出エジ20:11)のを誤解して、神様を、濡れ衣を着せる全く不公平なお方にしてしまっているのです。エレミヤの時代の同胞たちは神様が別なところで「父親が子供の罪のために死刑にされることがあってはならない。子供が父親の罪のために死刑にされてはいけない。死刑にされるとしたら自分の罪のためでなければならない」(申命24:16)、とおっしゃっているのを見落としたのでしょう。エレミヤが30節で云っているのがまさにそれです:「これからは死刑にされる場合は誰しもが自分の犯した不義のせいである。酸っぱいぶどうを食べれば誰しも歯が浮くのである」。ですから、親は自分の霊的な過去を子供に正しく伝え、子供は親の誤りについてきちんと教えられ、そこからしかるべき教訓を引き出さなければならないのです。歴史修正主義者は放逐されるべきです。イスラエルの学校の聖書の時間には改定もしてなければ、検閲もしてない旧約聖書を教えます。こんな話はあまり読みたくない、というようなところも少なくありません。誰かと一晩中取っ組み合って勝って故郷を目指すヤコブは深夜の格闘で相手が腿のところを殴ったので、足を引きずっていたとあり、それがためにこの話がだいぶ後になって書かれたときにも彼の子孫は動物の足のその部分は食べなかった、と書いてあります(創世32:32−33)。今のユダヤ人に取っても動物の腿の関節の上にある腰の筋はコシェルでない、として食べないでしょう。この格闘に勝ったヤコブはあまり自慢にならない「ヤコブ」というのの代わりに「イスラエル」というもっと立派な名をもらいましたけど、神様は後々まで「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼ばれます。イスラエル民族は確かに輝かしい歴史を誇ることができますが、その歴史にはあちこちに暗い影が射しています。
エレミヤはここで「新しい契約」について語りますが、モーセの十戒に込められている「古い契約」がこれですたるのではありません。中身は変わりません。古い契約は2枚の石の板(タブレット)に刻んでありましたが、新しい契約は私ども一人一人の心に刻まれるのです。一昔前までは、重い聖書を持って日曜礼拝に出ましたが、今は、説教が始まったら、胸のポケットから、ハンドバッグからサムスンのタブレットを出して、スイッチを入れ、「エレミヤ31」を押せば聖書の箇所がパッと目の前に現れます。エレミヤより何百年後に、イエスキリストは「私が来たのは律法と預言書を廃棄するためではなく、それを本当の意味で完全に実践するためである、と思っておいてもらいたい」(マタイ5:17)と仰せられました。
今年の初め、フィリッピンで教えさせてもらった時、生徒の中にインド人がいました。彼はマドラスの神学校で教えているんですが、フィリッピンで博士課程に入っていました。彼から、2019年に彼の神学校でヘブライ語を教えてもらいたい、と説得させられました。泰緬鉄道の建設には連合軍捕虜の他にアジア各地から連れてこられた20万人以上の強制労働者があり、その中にインド人もいたことはぼんやりとは知っていたのですが、具体的な事実を知りませんでした。数年前に封切りになった英豪合作の「レイルウェイ 運命の旅路」という映画のもとになっているエリック・ロウマックスの自叙伝を先月再読しました。スコットランド出身のこの英国兵も日本軍捕虜になって泰緬鉄道で辛酸を舐めさせられ、日本人に対する怒りと憎しみに燃えていました。その本の中に、ある時彼のいた捕虜収容所のインドのタミール人労働者たちの間にマラリヤが蔓延したのですが、日本軍の指導層が最も効果的な治療法として考えついたのは、患者を全員射殺し、死体を焼却する、というのだったそうです。みなさんお分かりの通り、私はいまでもヘブライ語やギリシャ語だけでなく、自国の歴史についても学び続けています。
ここまでのところで触れなかったことについてお話しさせていただいて締めくくることにします。不当に加えられた被害、傷、つまり罪について語りました。そういうことを行った加害者に焦点を合わせました。しかし、犠牲者も自分が被った被害を記憶する必要があると思います。ここで申し上げている被害は、津波とか地震などのような、人間の手には負えない天災のことではなく、第三者によって意図的に加えられた不正行為のことです。過去に舐めさせられた苦痛はあっさり忘れ、水に流し、前向きの姿勢でいく、たとえ加害者が未だに悔いて謝罪することをしなくても、いい顔してあげ、赦して、恨みは忘れ、仲良くしていきたい、というのはもっともな人情です。精神療法としては素晴らしい効果を発揮するかもしれません。復讐したい、という本能的な衝動を乗り越えられる、というのは賞賛に値することです。でも、正義の神様はそういう解決法をよしとされません。「人間の罪を本当に赦せるのは神様だけと違いますか?」とイエス様に抗議したパリサイ人たちはある意味では正しかったのです。どんなに辛くとも、加害者と被害者は一緒に、勇気をもって、誠実に過去に向き合ったうえで、一方が他方を赦して初めて本物の和解が成立します。

ドイツの故ワイツゼッカー大統領はナチス党員で戦争犯罪で裁判にかけられた父を持つ人でしたが、ドイツ敗戦40年目の1985年5月8日、ドイツ国会で「荒野の40年」という有名な演説をした時、18世紀のユダヤ人ラビから引用しながら、「忘れようとすれば捕囚はそれだけ長引くだけである。救いの本当の鍵は記憶にある」、と言いました。この文句はエルサレムにあるナチスによるユダヤ人大量虐殺を記念するヤドヴァッシェームの出口のところの碑に刻まれています。この原則は、加害者のみならず、被害者も心に刻んでおく必要があります。

2017年10月24日火曜日

私のこれまでの発表論文・著書

  これまで60年近く、与えられた時間、資産のかなりの部分を研究、著作にかけてきました。その営みに対する責任をとるという意味でも、これまで私が日本語で書いたもので公に出版されたものにどういうものがあるかを網羅的に公表することにしました。これまでも、世界的な道場で仕事をしてきましたが、日本語の著作は多少はあり、それを通して日本のキリスト教会、関連学会、あるいは一般読者との交流を求めようとしてきたことを読み取っていただけるかと思います。

  ここに公表した情報は本日(2017年10月24日)時点で該当するものを網羅しています。ごく少数ですが、日本で発表されたものの中に英文のものもありますが、ここには出しませんでした。

出版発表作品
(日本語の著作に限定)

 村岡崇光

I) オリジナル、非翻訳

Ia) 単行本
+ 土岐健治 「イエスは何語を話したか? 新約時代の言語状況と聖書翻訳についての考察」: II 「イエスと聖書翻訳 タルグム」, pp. 93-122. 東京:教文館、2016。

Ib) 単行本中あるいは叢書の一部
「士師たちの時代」、関根正雄(監修)『聖書の世界』 第2巻, 旧約 II, pp. 67-124; 「エズラ・ネヘミヤ時代」 第3巻, 旧約 III, pp. 177-216, 308-13, 「マカベア時代」, pp. 217-302, 313-15. 東京:講談社, 1970.
日本聖書学研究所編:「聖書外典偽典」(9巻) 「第一エズラ書」 1.19-66, 299-318; 「ベン・シラの知恵」 2.67-207, 361-510; 「ヨベル書」 4.3-158, 293-338, 「エチオピア語エノク書」 159−292, 339-89、 「シリア語バルク黙示録」 5.67-154, 367-402、 「使徒たちの手紙」  9.39-82, 397-422, 「預言者イザヤの殉教と昇天」 167-203, 446-67, 「ペテロの黙示録」 205−34, 468-74. 東京:教文館, 1975-82。
「シリア教会」、前嶋信次+(編)『オリエント史講座』 3「渦巻く宗教」, pp. 177-199; 「エチオピア教会」、pp. 290-304. 東京:学生社、昭和1982。
「七十人訳聖書」, 井筒俊彦+(編)『東洋思想』 I 147-86. 東京:岩波書店、1988。
「聖書の言語」、pp. 13-34, 鍋谷堯爾+(監修)「聖書神学事典」。東京:いのちのことば社、2010。
「アララク、エブラ、オストラカ、カトナ、ギルガメシュ叙事詩、楔形文字、クムラン文書、シロアム碑文、聖刻文字、聖書の言語(旧約)、聖書の言語(新約)、トーラー、粘土板、ヘルメス文書、ミシュナ、ムラトリ断片、モアブの碑石、ラス・シャムラ、ロゼッタ碑石」、泉田昭+(編)「新聖書事典」。東京:いのちのことば社、2014。

Ic) 論文
「パレスチナ系ユダヤ人アラム語の研究」、日本聖書学研究所編『聖書の思想・歴史・言語:関根正雄教授還暦記念論文集』, pp. 203-33. 東京:山本書店、1972.
「『ベン・シラの知恵』和訳に寄せて」 『福音主義神学 8 (1977)』 22−41。
「後期古典ベブライ語における名詞文」、日本聖書学研究所編「聖書の使信と伝達:関根正雄先生喜寿記念論文集」, pp. 318-38. 東京:山本書店、1989。
「古典ヘブライ語意味論研究の最近の動向」、『旧約釈義研究』(EXEGETICA) 9 (1998) 37-45.

II) 翻訳
ジェームズ・M・ストーカー「キリスト伝」 < James M. Stalker, The Life of Jesus Christ (1879). 東京:いのちのことば社, 1959, 2015.
ジェームズ・M・ストーカー「パウロ伝」 < James M. Stalker, The Life of St. Paul (1884). 東京:いのちのことば社, 1963.
舟喜順一監修 「聖書注解ー旧新約聖書全1巻」「エレミヤ」 pp. 617-649, 「使徒行伝」 pp. 915-57, 「ペテロの手紙I, II」 pp. 1158-79; 共訳(有賀寿)「箴言」 pp. 519-41, (村瀬俊夫)「マルコ」 pp. 819-54, (清信慎子)「ピリピ」 pp. 1058-65. 東京:みくに書店、1966.
ジェームズ・M・ストーカー「キリストの最期:主の裁判と死についての瞑想」 < James M. Stalker, The Trial and Death of Jesus Christ – A Devotional History of our Lord’s Passion (1879). 東京:いのちのことば社, 1968, 2007.
シュムエル・ヨセフ・アグノン「丸ごとのパン; 操の誓い; テヒッラ; イドとエナム; 永遠に」 ノーベル賞文学全集15, pp. 215-397 < Shmuel Yosef Agnon, Pat shelema, Shevu’at ’emunim, Tehilla, Ido ve-Enam, ‘Ad ‘olam. 東京:主婦の友社. 1971.
R.E. クレメンツ 「近代旧約聖書研究史―ヴェルハウゼンから現代まで」 (聖書の研究シリーズ) < R.E. Clements, A Century of Old Testament Study (Lutterworth Press: Guildford and London, 1976). 東京:教文館、1978。
H.H. ベンサソン 「ユダヤ民族史」 < H.H. Ben-Sasson, History of the Jewish People (London, 1977), 3:中世篇I、4:中世篇II。東京:六興出版,1977.
アハロン・アッペルフェルド「バーデンハイム 1939」 < A. Appelfeld, Badenheim ‘ir nofesh (1975). 東京:みすず書房, 1996.
「ダニエル書、エズラ記、ネヘミヤ記」. 東京:岩波書店、1997.
A. コーヘン 「タルムード入門 I」 < A. Cohen, Everyman’s Talmud (London, 1932). 東京:教文館, 1997.
関根正雄編「旧約聖書外典」上 (講談社文芸文庫)、「第一マカベア書」, pp. 15-130. 東京:講談社, 1998.
マルゲリート・ハーマー「折られた花:日本軍『慰安婦』ととされたオランダ人女性たちの声」 < Marguerite Hamer - Monod de Froidville, Geknakte bloem: Acht vrouwen vertellen hun verhaal over Japanse militaire dwangprostitutie (Delft, 2013). 東京:新教出版社, 2013.

「私のヴィア・ドロローサ:『大東亜戦争』の爪痕をアジアに訪ねて」. 東京:教文館, 2014.

2017年10月10日火曜日

バーキット賞受賞

みなさん

最近私の身の回りに起こったことをお知らせしたく思います。

実は、三ヶ月ほど前に、まったく予期しない連絡を英国学士院から受けとりました。フランシス•クローファッド•バーキット Francis Crawford Burkitt(1864−1935)は新約聖書の本文並びに東方教会の研究で目覚ましい貢献をしたケンブリッジ大学の教授でしたが、その業績を記念するために、聖書学の分野で著しい貢献をした学者にこのメダルを英国学士院が出すことになり、1925年から旧約学と新約学隔年で、今年は旧約学にメダルが出る年でした。
一昨日(木曜)の夕方、ロンドンの英国学士院で私のヘブライ語学並びに七十人訳(旧約聖書の古いギリシャ語訳)研究を極めて重要な業績を認めて、Burkitt medalという賞を受け取るための授賞式に出席しました。人文学関係の色々な分野の20名ほどの受賞者も同席しておられました。受賞者は一人2分の挨拶をすることが許され、二人までは同伴者がいても良いということで、妻と、ロンドンにいる娘が同席しました。私の英語での挨拶の和訳は:

「私の学者としての生涯は1970年に英国マンチェスター大学のセム語講師として任命された時にさかのぼりますが、その年の11月第2日曜の夕方、テレビのスイッチを入れたところBBC2が「戦場にかける橋」という有名な映画を放映していました。祖国の歴史のこの暗いページに気がついたのはこの時が初めてでした。三ヶ月ほど前に、英学士院から今年のバーキット•メダルを授与することになったという驚くべき通知をいただいきましたが、過去の受賞者の名前を辿って行った時、私は、チャールズ•ウェズリ作詞の有名な賛美歌の替え歌を書いてみたい強い衝動に駆られ、こういうものを考えました:「イギリス人に計り知れない痛みを与え、多くを過酷な死に追いやった民族の子孫である私がバーキット•メダルをいただけるなどということが可能なのでしょうか? 私ごときがこの栄誉にふさわしいとお考えくださったとは、これは驚くべき恵みとしか言えません」。英学士院の会員の中には、ご自分の父を、叔父を、あるいは祖父をこの戦争犯罪の犠牲者としてなくされた方がおられてもおかしくありません。このメダルを頂戴したことで、私がこれまで歩んできた聖書語学、文献学というヴィアドロローサを今後も歩み続ける覚悟がさらに固まりました。でも、一人でではなく、妻子達の支援を得つつ、上から、『村岡、使命完了』という声がかかるまで歩み続けるつもりです。誠にありがとうございました」

時間の制限もありこれ以上は言えませんでしたし、列席者の大部分が英国人で詳しく言わなくてもわかっていただけただろうという事情もありました。でも、少し敷衍します。
映画「戦場にかける橋」は1957年の米英合作で、日本人俳優早川雪洲も出演しましたが、太平洋戦争中、日本軍が、国際法を無視して、連合軍の捕虜を使役してタイからビルマに及ぶ全長415キロの鉄道(泰緬鉄道)を建設するという難工事で、その過程で膨大な犠牲者が出ました。英国、オーストラリア、米国、オランダの捕虜合計61,811人が使役され、うち12,621人死亡。英国兵だけでも、30,131人中6,904人死亡。このほかにも、正確な統計はないものの、20万をゆうに超える強制労働者が周辺の東南アジアから連行され、連合軍のそれをはるかに上回る死者が出た、と推測されています。この映画は、その線路の沿線でクワイ河に橋をかける工事に焦点を合わせています。英連邦王国では、今もなお、毎年11月第2日曜は「追悼の日曜日」と言われて、前世紀の二つの大戦での戦死者を追悼することになっており、それに関連したいろいろな行事が繰り広げられます。

授賞式に続くレセプションのとき、英国人の出席者の何人かが声をかけてくださり、私の挨拶にとても感銘を受けた、と言ってくださいました。その後、メールで同じような感想を伝えてこられた英国人も何人かあります。

私は、この受賞は、単に私個人の業績を英学士院が評価してくれた、ということだけではないのではないか、と思います。過去の受賞者の名前を見て気づいたのは、欧米の学者の名前は散見しましたが、アジア人での受賞者はこれまでに一人もなかった、ということでした。私個人の業績はもっぱら英語で発表されていますが、日本語のものも数点あります。現代語からの翻訳は除いても、たとえば、聖書外典、偽典(教文館1975)中の一部、岩波聖書(1997)中のダニエル、エズラ、ネヘミア書、論文数点。欧米に留学、博士号を取得して帰国されたり、博士論文や論文を英独仏語で発表される方が少なくない日本だけでなく、韓国その他、アジアの国々でも聖書の学問的な研究の水準が上がりつつあります。

挨拶の中に出てきますウェズリーの賛美歌は「賛美歌第二編」230番「わが主を十字架の」です。また、「ヴィアドロローサ」とは、イエスが磔の刑を宣告されてから刑場までご自分の十字架を担って歩かれた道を指す「悲しみの道」を意味するラテン語ですが、2003年にライデン大学を定年退職して以来、毎年、最低5週間、アジアでボランティアとして私の専門の科目を教えさせてもらっていることを日本聖書協会が評価してくれて、2014年聖書事業功労者として表彰された時に教文館から「私のヴィアドロローサ:『大東亜戦争』の爪痕をアジアに訪ねて」と題して出版された拙著の題に使った表現です。イスラエル留学のために日本を離れてすでに53年になりますが、国籍は今なお日本にあります。学問と政治は分けておいたほうが良いのではないか、と言ってくださる方もたまにありますが、私は学者である前に人間、日本人である、というのが私の立場です。

挨拶の中に、家族による支援に触れましたが、妻はお茶の水女子大で化学を学び、職業婦人としての道も選択できましたが、妻として、また、2年半おきに、しかも外国で生まれた三人の子供の母として、家庭の主婦に徹してきました。2009年出版の私の七十人訳辞書は彼女に捧げられており、「私のことをこんなに長いこと我慢してくれ、また私のために、私と共にこんなに苦労した妻桂子へ」と書きました。また、子供たちは、祖父母に甘えることもできず、イギリス(10年)、オーストラリア(11年)、そしてオランダというふうに私の職業的使命のために国から国へと渡り歩かされました。聖書語学並びに聖書の古代訳の研究者としての私は東京教育大時代の故関根政雄先生、ヘブライ大学での指導教官故ハイム•ラビン先生など、多数の先生、同僚、大学、研究所にお世話になりましたが、2011年出版の「クムラン•アラム語文法」は今はなき父母に献じました:「一人息子で長男の私が長年にわたって外国に住んで仕事をすることを辛抱してくれ、それがためにこの世での最期のお別れもできなかった不肖の息子より」、と書きました。


この賞には賞金はなく、青銅製の直径7センチの丸いメダルで、一面には「知の根源である神の言葉が私の歩みを導いてくれた」とあり、もう一面には聖書の一ページが開かれていて、「神の言葉は生きており、現に働いている」という聖句がラテン語で刻まれています。

2017年9月21日木曜日

対話とは?

 安倍首相が現在開催中の国連で演説し、

対話による問題解決の試みは一再ならず、無に帰した。なんの成算があって我々は三度、同じ過ちを繰り返そうというのか。必要なのは対話ではなく圧力だ。」

と発言した、と報道されています。でも、北鮮のキム氏と膝を交えて「対話」をするために、安倍首相をはじめ誰かが北鮮に出向いたことはありません。また、キム氏とどこか中立の土地で話しませんか、と声をかけた、というような記憶もありません。ここで必要なのは本当の対話です。しかし、これまであったのは、脅迫のやりとりでしかありませんでした。

21.09.2017

2017年9月17日日曜日

林えいだい氏逝く

   北九州を中心に長年活躍してこられたノンフィクション作家林えいだいさんが9月1日83歳で他界された。林さんとは、オランダ人で太平洋戦争中にインドネシアで日本軍に不当な苦しみを受けた人たちに関する取材でお会いした事が数回ある。オランダ人の他にも、朝鮮人や、台湾の高砂族に対する加害の歴史を犠牲者に直接会い、被害現場に足を運んで書かれた著作が多い。林さんの生涯のモットーは「過去の歴史に学ぶ事をしない民族は確実に滅亡の道を歩んでいる」であった。

   ここしばらく、日本のみならず、世界の情報機関から、北朝鮮をめぐるニュースがふんだんに流れ、日本には、ロケットの危機を真剣に憂慮している人たちが少なくないようである。日本を遠く離れて住む私がこういう事を言うのも気が引けないでもないけど、日本が滅亡するとしたら、それは朝鮮半島から飛んでくるロケットのせいではなく、戦後72年、依然として自分たちが始めた大東亜戦争のこと、その結末が何を教えているのかを学ぼうとせず、きちんと責任をとらないところから来るのではないだろうか。最近の国連安全保障理事会で北朝鮮に対する制裁が審議された時、米国は、石油の補給の全面停止を提案し、日本もそれに同調した。そのニュースを読みながら、トランプ大統領も、安倍首相も、日米両国が共有している歴史を知らない事にただ呆れるほかなかった。当時の連合国は米合衆国主導で日本に対する石油輸出の全面禁止を1941年8月に宣言したことが、日本が米国に攻撃を仕掛ける極めて便利な口実になった、ということは日米両国の多くの人が知っている初歩的な歴史の事実ではないのだろうか。幸いにも、安保理事会は、最終的には、当初の米国の案をかなり薄めた案を採択した。 

   3年前に、戦争中インドネシアにいたオランダ系の女性たちで日本軍の性奴隷となって言語に絶する苦しみを味わわされた女性たちの証言をもとにした本がマルゲリート・ハーマーによって書かれたものが出版され、私はそれをオランダ語から和訳して「折られた花:日本軍『慰安婦』とされたオランダ人女性たちの声」と題して、新教出版社から出してもらった。数日前に、ハーマーさんとある会合で会った時、この本が近々中国語に訳されて出版される事になった、と言われ、お祝いの言葉を申し上げ、オランダ語から訳せる人が見つかったんだろうか、と尋ねたところ、私の和訳から翻訳するそうだ、と言われた。中国で有名になりたいわけでは全くないけど、日本人で、日本現代史のこの暗い部分に真剣な関心を持つ日本人がいる事を中国の人たちが知ってくれる事は嬉しい事である。帰宅してから、数年前に買った班(バン)忠義著、「ガイサンシーとその姉妹たち」(2006年、梨の木舎出版)を再読した。著者は1958年に中国に生まれ、現地の大学で日本語を学び、その後、日本に留学して、日本人女性と結婚し、今なお日本在であるが、ひょんなことから、戦時中中国大陸で日本兵に性的屈辱を受けた初老の中国人女性数人と日本で知り合い、彼女らの故郷である山西省(北京の南西)に何度も足を運んで、犠牲者たちに会い、なかでも、当時山西省一の美人の令名の高かったガイサンシー(蓋山西)という、これも日本兵に散々に痛めつけられた女性を個人的に知っている人たちと会ったのであった。班さんがこの目的で最初に帰国した時は、彼女は故人となっていた。読みながら、手が震え、涙で目が曇る事が何度となくあった。犠牲者たちや、現地の古老たちの口から、問題の日本軍部隊の隊長の名前も確定でき、また、班さんは加害者の元日本兵をも自宅に訪ねて、証言を聞いた。しかし、戦後、監禁された中国人女性たちを陵辱した兵隊、指揮官の誰一人としてその責任を問われる事なく今日に至っている。彼らの総指揮官であった元帥陛下も責任を問われなかった。この本を再読している最中に、この本の事をグーグルしたところ、2014年に封切られた「黎明の眼」という中国映画にぶち当たり、妻も一緒に見たけれど、涙なしには見られなかった。中国人の中にも万を超える犠牲者がったのではないか、と推定されている。映画は犠牲者のおばあさんが南京の南京虐殺記念館の別館として最近できた慰安婦問題に焦点を絞った展示を見ている途中気絶するところから始まっている。私たちも、昨年南京を再訪した時に、この資料館にも行った。その時、1942年に公演された中国のオペラ「秋子」の背景になっている悲劇の女性のことは初めて知った。結婚直後に慰安婦として強制的に中国へ連れてこられたのであるが、召集令状を突きつけられて夫も中国戦線にわたり、ある日、駐屯地の慰安所で、足を踏み入れた部屋で自分の愛妻と鉢合わせになった、という実話を基にした作品である。「黎明の眼」の最後の場面を見て私は頭をコンピューターのスクリーンにぶっつけそうになった。大多数の中国人犠牲者が登場した後に、日本から慰安婦として連れてこられた女性が、ある夜自分の部屋に入ってきた若い日本兵から翌日、死にに行くに等しい作戦で出兵する事になっている、と聞かされて、気の毒に思い、本当に親身になって、精一杯「慰める」のであるが、事が終わって、彼の出身地を尋ねてみたところ、彼が小学生の頃に別れたっきりになっていた実の弟である事が判明したのであった。これも作り話のようには聞こえなかった。自分が日本人である事に絶望しそうな気がした。

17.09.2017

2017年8月28日月曜日

日本人の無責任体制と大川小学校の犠牲者に関する問題を一流英国新聞が取り上げる

先週24日に、英国の一流新聞として知られるガーディアン紙(The Manchester Guardian)がその記者の一人、ロイド・パリー(Richard Lloyd Parry)の筆になる「波の下に沈んだ学校:日本の津波の想像を絶する悲劇」(The school beneath wave: the unimaginable tragedy of Japan's tsunami)と題する記事を掲載しました。記者は宮城県石巻市釜谷にある市立大川小学校の犠牲者の遺族や関係者にも過去何年にもわたって度々会って話を詳しく聞いてこの長い記事をまとめたものです。

津波が襲った時、小学校の校庭には先生たち十一人と生徒七十八人がいたそうですが、学校の裏にある高い丘に避難する代わりに、低地に向かったために津波にもろにぶつかり、先生十人、生徒七十四人が死亡という大惨事に至りました。東北地方には他にも津波に襲われた学校があったのに、他のところではたった一人の生徒が犠牲になった、これは広く知られている事実です。昨年10月26日、仙台地裁は、遺族の親たちが、避難のための適切な措置が取られなかったとして、宮城県と石巻市に損害賠償を求めて訴訟を起こしたことを受けて、原告の主張を認めて、県と市に総額14億3000万円の賠償金の支払いを命じました。

裁判に先立つ調査や、公聴会でも、哀悼の意は表されたものの、誰一人として自分の過失を認め、非を悔いて、遺族に謝罪するということは一切ありませんでした。校長を含む学校側も、市の教育委員会、県の担当者、誰一人として責任を認めなかったというのです。責任の所在を明確にせず、うやむやにして済ませ、責任者の名を正式に公表するということをせず、金で問題を片付けようとしたわけです。

一昨年12月28日に日韓の間で合意された慰安婦問題の処理も同じです。加害者の日本側からのきちんとした、公式の謝罪はありませんでした。その時の共同声明の中で安倍首相は「心からおわびと反省の気持ちを表明する」とありますが、なんとなく空々しく聞こえてしようがありません。本気ならば、数ヶ月前に時の朴大統領と会うためにソウルを訪問した際に、まだ生きておられる犠牲者に会ってちゃんと謝り、日本大使館の真向かいに立っている慰安婦像の前にぬかずくこともできたはずです。また、犠牲者が他界された時には、遺族の反対がない限り、ソウルの日本大使がその葬儀に出席するよう配慮することもできるはずです。日本側からお渡しした10億円は小銭ではないから、今後この件については一切問題にしないようしてもらいたいという姿勢でした。日本政府が本当に謝罪するつもりならば、国会決議で慰安婦制度の不正、罪悪性を明確に認め、謝罪の言葉を入れるのがすじではないでしょうか。

太平洋戦争中、在留日系人12万人余りが敵性国人として米国各地の強制抑留所に閉じ込められ過酷な生活を強いられましたが、1988年、ドナルド・レーガン大統領の時、米国議会はこれが非人間的な人種差別政策であったことを認め、全員に一人2万ドルずつを賠償金として支払い、レーガン大統領が自ら署名した謝罪の手紙を一人一人に送った、と言われていますが、ここで日米の違いはあまりにも際立っています。

2017年8月1日火曜日

低下する一方の日本語能力

安倍首相をはじめ、政治家たちが国会で発言する時、漢字の発音がお粗末だ、という記事がある、と言って妻が見せてくれました。外国に半世紀以上住んだ者には気になります。もう10年以上前に、小学校5年生の子供が、カール•ブッセの有名な詩を明治時代に上田敏が名訳し、発表したものを、現代語に翻訳して、その言わんとするところを説明するようにという宿題を持って帰って音を上げている母親がインターネットで救助を求め、その回答が四つ出ていたけど、いずれも情けないもの。

私訳をここに敢えて載せます。

山のあなたの 空遠く
幸住むと 人のいふ
噫われひとと 尋めゆきて
涙さしぐみ かへりきぬ
山のあなたに なほ遠く
幸住むと 人のいふ

高いあの山よりもっと遥か先に
幸せがある、と言われました。
ああ、私は大勢の人達と一緒に、探しに行きましたが、
涙ながらに戻ってきました。
あの山より、もっともっと遥か先に
幸せがある、と言われました。

2017年6月28日水曜日

自分の生徒に性的嫌がらせをする教師

 オランダでネット上で読んでいる日本の新聞(東京新聞と朝日新聞)にこのところ、日本の学校教師による教え子に対する性的嫌がらせの記事が変に目につき、特にオランダ贔屓でもありませんが、こちらの新聞ではこういうことはごくごく稀にしか出てこないように思います。
 『教師の 学校内「わいせつ犯罪」が一向になくならない理由』というネット上で見つけた記事は
224人。これは2015年度にわいせつ行為で処分を受けた公立小中高校の教員数(文部科学省調べ)だ。このうち懲戒免職者数は118人。1990年代と比べ、同行為で処分を受ける教員の数は目立って増えている。>
で始まっています。これは公立小中高校だけに関する数字ですから、私立学校、高等教育機関、各種学校まで入れたら、数はもっと増えることでしょう。しかも、これは被害者が公に訴えた場合のことで、泣き寝入りになったケースを考慮に入れたら、氷山の一角に過ぎないでしょう。
 伝統的な日本社会の、儒教的倫理を背景に考えますと、これはどういうことだろう、祖国はどこまで下り坂を駆け下りていくのだろう、と身の毛がよだちます。私の育った鹿児島県の片田舎では、学校先生は村全体の尊敬を一身に集めている存在でした。

 しばらく前に、ネット上で、偶然に、台湾の小学校の卒業式で「仰げば尊し」を歌っている画像が出てきました。卒業生の中には涙ぐんでいるものも少なくなく、生徒たちの間を回って肩を抱きしめる教師の手にもハンカチが握られていました。1895年に台湾が日本の植民地になってから、日本が持ち込んだ習慣なのでしょうが、これも中国系の台湾と日本が共有する文化的遺産の一部なのでしょう。ユーチューブを観ながら、私も涙をこらえるのに苦労しました。
  最近の日本の学校の卒業式では「仰げば尊しは」だんだんと歌われなくなっているとか聞きましたが、それは歌詞が今の生徒たちには難渋でついていけない、ということだけでなく、先生から嫌なことをされて、この歌はとても歌う気になれない、という生徒が増えていてもおかしくない、と危惧します。実に情けない限りです。

 上に引用したネットの記事は以下のサイトで全文が読めます。

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/教師の 学校内「わいせつ犯罪」が一向になくならない理由/ar-BBCjSzE

2017年6月18日日曜日

イエスの目線

2010年に北ボルネオのコタキナバルのサバ神学校で新約聖書のギリシャ語初級を5週間教えさせてもらいました。学生は中国語系とマレー語系と半々でした。彼らの中にはこの必修科目をかなりの負担に感じている学生がいることが感じられ、なんとかしてやる気を起こすように心がける必要を痛感しました。ギリシャ語の冠詞を学んでいたとき、「君たちは中学で英語をやったとき、どういう場合にthe bookと言い、どういう場合にa bookと言うのかを覚えるのにすごく苦労したはずだ。君たちの母国語のどちらにも冠詞はない。ところが、ギリシャ語には定冠詞に24もの形があって、英語だったらみんなtheで訳せるんだから、本当に同情に耐えない」と言い、ルカ伝15章の有名な「放蕩息子の譬え」の購読の時間に、我が子の帰宅を待ち侘びていた父親がある日、息子が戻ってきたのに気付き、「可哀想に思って」、まだ遠くにいたのに駆け出していって、抱きかかえて接吻した、と20節に書いてあるけど、「可哀想に思って」と訳されているギリシャ語の原語は「断腸の念に駆られて」としたほうがもっといいと思う、と「断腸之念」と黒板に書いて、漢語のこの表現は紀元3世紀、古代中国の桓温(カンオン)があるとき従者を連れて旅に出、森の中を通っているとき、従者が樹の間に子猿を見つけたので、長旅の慰みにと思って捕まえて連れて歩いた。ところが、その母猿が二人に見え隠れしながら後を追い、飲まず食わずで百里余りも行ったところで疲労困憊、路上に倒れて死んだのだけど、物音に気付いた従者が引き返して猿の腹を切り裂いてみたところ、我が子のことを憂い、念ずる母親の腸は全部細かくちぎれていた、という故事に基づくものらしい、と話したところ、中国系の学生は、「先生、この話をギリシャ語で読むことでそんなに深く味わえるんだったら、24の定冠詞の形も覚えるのは苦になりません」、と言いました。

今朝祈りの時間に私はルカ7章に出ている短い話を読んだんですけど、イエス•キリストがガリラヤのナインという町を通られたとき、ある寡婦が一人息子に死なれて、その埋葬のために村の人たちと一緒に墓地へトボトボ歩いて行くのに出くわされ、「可哀想に思って」、「もう泣かなくともいいよ」と言って、息子を生き返らせてやられた、という話ですけど、そこでも、放蕩息子の譬えの場合と同じギリシャ語が使われています。そして、今朝初めて気がついたのですけど、スプランフニゾマイというこの動詞は新約聖書で合計12回出て来て、放蕩息子の譬えの場合以外は、いずれも、なにか痛ましい場面に出くわされたときイエス•キリストご自身がどう感じられたかを表現するのに使われています。たいていの場合はそばにいた人たちが受けた印象を表現していますが、一度はイエスご自身がその言葉を口にされたことになっています。自分の話を、三日間もろくすっぽ食事もせずに熱心に聞いてくれている群衆を見て、「私は断腸の思いに駆られる」と言われた(マタイ15:23)というのです。放蕩息子の譬えを語りながら、イエスはその父親と気持ちが重なられたのではないでしょうか。

2017年6月4日日曜日

衣食足りて礼節を知る


 最近オランダの知人夫妻と雑談をしているとき、私たちの人生、特にいわゆる先進国、福祉国家における物欲のことに話が弾んだ。私たちは物質的にどこまで豊かになれば本当に満足できるのだろうか?私たちの物欲、貪欲には終わりがないのではないか、と思えてならない。これは、個人の人生だけでなく、団体、企業、国家についても言える。企業は毎年純益を前年比で増やしていないと、破産が目前に迫っているような錯覚に陥る。個人でも、年間収入の伸びが停滞すると、目の色を変える。子供が成長し、学費も嵩むようになれば、出費も確かに増えるから、収入は増えたほうが安心かもしれない。でも、子供も学校を終わり、社会人になり、親は退職していたらどうだろうか?使徒パウロが云ったように「食べ物と住むところがあればそれで私たちは十分としたい」(第一テモテ6:8)という人生観に根本的な欠陥があるのだろうか?私たち夫婦ももう年金生活者になって14年になる。三人の子供達もとっくに巣立って経済的には完全に独立しており、私たちからの仕送りは必要としない。また、彼らから仕送りをしてもらう必要もない。拙宅の居間兼客間に足を踏み入れられた方には一目瞭然のように、別に取り立てて言うような家具も、備品も、調度品も置いてない。もう十五、六年前に空き巣に入られた。この辺りは閑静な住宅地ということになっているので、今でも空き巣に狙われることは珍しくないらしい。しかし、私たちはその後、ただの一度も空き巣の被害には遭っていない。別に新しく、頑丈な錠を取り付けたわけでもない。家中探し回って、引き出しを開けっ放しにしてあったけど、めぼしいものが何も見つからずに、がっかりしたのか、この家に入っても時間の無駄だ、と思われたのかもしれない。それでも、私たち夫婦は、日常生活の中で惨めに思ったことはただの一度もない。医療保険料、光熱費、最低限の生活費も、多少ある預金にやたらと手を突っ込まなくとも払える、贅沢はできないし、別にしたいと思わない、それでも心身ともにまだ比較的健全で、読書、思索、私は研究も順調に続けられることを私たちの神様にただ感謝する以外ない。

 戦後の祖国の全体的な姿勢は、物質的、経済的な復興に焦点が合わされ、精神的な、内面的な豊かさが犠牲にされてきたのではないだろうか。戦後処理、日本の軍国主義、侵略主義の犠牲になったアジア諸国との問題のきちんとした整理が、戦後72年経てもいまだにほとんど手付かずになっていて、国民の大多数が経済成長を最大の目標に掲げる政党を支持し続けているのも、このような視点から見るべきなのではないだろうか。何を食べ、何を飲み、何を着ようか、と心を煩わせないように、とイエス•キリストは教えられたけど、イエスは、ホームレスの人、着るものもろくすっぽなくて、真冬に公園でガタガタ震えながら、睡眠も取れない、というような人たちに向けてこの教えを説かれたのではなく、日本の現在の大多数の、中産階級に向けて語られたのではないだろうか。毎年、短期間帰郷したとき、日本のテレビのスイッチを入れると、料理番組がどのチャンネルでもあまりに多すぎてヘドが出る。


2017年5月14日日曜日

台湾の慰安婦たち

2009年と2015年に教えさせてもらった台北市の中華福音神学院から今年dvd版で出た映画で「50年間隠されていた秘密」(1998)と「葦の歌」(2015)を贈呈され、桂子二人で観ました。以下は、中華福音神学院に英語で出した礼状の和訳です。

 ご親切にお送り下さったDVDを家内とわたくしは観させていただきました。私が貴神学校で最初に教えさせてもらった時、ある日私たちは一人のご高齢の犠牲者をご自宅に訪ねました。その方は最初の映画には登場されますが、別のにはお姿が見えません。他の多くの女性たちと同じく、彼女もその後、他界されたのかもしれません。慰安婦であったことを公式に認定されていた方は五十九人あったそうですが、今はもう二人しか存命しておられないようです。この映画を作成した台北市の婦女救援社會福祉事業基金會の職員の方でしょうが、映画の中で、少なくとも千人は台湾人女性の犠牲者があったに違いない、と言われますから、圧倒的大多数の方は、いろんな理由があったでしょうが、黙して語らず、一人で寂しく苦しみ、その辛い記憶を胸に物故されたのでしょう。私たちの戦争世代の同胞がこの無辜の、全く無防備の女性たちにこういうことをしたということを日本人として真に慚愧に堪えません。のみならず、戦後の日本がこの歴史を直視しようとせず、謝罪もせず、しかるべき補償もせずに今日に至っていることをどんなに私共が恥じているかは言葉では表現できません。最初の映画の中で、老齢のご婦人が家族の墓地にお参りし、もう鬼籍に入っておられる母上に向かって自分の過去を告白される場面は正視できませんでした。その後クリスチャンになられたという別の女性が、クリスチャンとして加害者を赦すべきであることは頭ではわかっているけど、それを実行するだけの勇気がない、と正直に告白されるのは聞いていていたたまれないくらい辛いでした。

 不当に加えられた危害や損失は、加害者のみならず、被害者も、歴史から、記憶から消してはならない、というのがわたくしたちの基本的な立場ですので、上記の基金會の尽力によって昨年12月台北市に慰安婦博物館が開館したのは誠に慶賀すべきことと思われます。これは自分の辛い過去を公にされたこの少数の女性たちの勇気の表現であり、現在の台湾の指導層と彼らを支持する国民が日本政府に対して謝罪と保障の要求を突きつけているのです。他の幾つかのアジア諸国と違って、台湾には、日本に対して好意的な姿勢をとる層もかなり広いので、この博物館の建設を台湾政府が支持したことは現政府には少なからぬ勇気を要したことでしょう。あと10年もすれば、自分の過去を一般に知られていようが知られていまいが、犠牲者たちの誰一人として生きてはおられないことでしょう。しかし、そのときになっても、日本政府は彼女たちの現在の同胞に対して謝罪し、しかるべき補償をすることはできるのですから、わたくしたちは、「ああ、これでせいせいした」などと思うことは許されません。そのような生物学的問題解決は聖書の教えに照らしても受け入れられませんし、人間の尊厳に対する冒涜という一般的な観点からも受け入れられません。わたくしたち日本人は、いつの日か、全人類の審判者の前に立たされ、その傍らにはかつての台湾人慰安婦たちも座っておられるところで、有罪判決を宣告され、永久に消えることのない火の中へ放り込まれるのだろう、と思うと肌身が寒くなるどころではありません。
 しかし、家内と私は、あまりにも暗い現代日本史のこの頁を決して見失わないように決意していますし、また、できるだけ多くの同胞が同じような姿勢をとり、何らかの行動を起こしてくださるようできるだけのことをしていきます。
 2番目の映画の題を見たとき、「傷つけられた葦」という聖書の表現がすぐ頭に浮かびましたが、映画の最後の場面で、イザヤ書42:3「彼は傷つけられた葦を折り、消えかかっている蝋燭の芯を揉み消すような人ではない」が引用されて出てきました。そして、2014年に私がオランダ語から和訳して新教出版社から出版してもらった「折られた花:日本軍『慰安婦』とされたオランダ人女性たちの声」をも思い出しました。太平洋戦争中少なくとも百人のオランダ国籍の女性たちがインドネシアで犠牲になったことは歴史の事実です。

 このDVDを私どもに届けてくださったことを心より感謝申し上げます。

村岡崇光
村岡桂子

付記
DVDに添付してあった説明書が中英二ヶ国語版で、日本語の訳がなかったのが遺憾です。


2017年4月16日日曜日

慰安婦問題:安倍内閣いつになったら分かるのか?

今朝の東京新聞の電子版の以下の報道には呆れて物が言えないです。

慰安婦「連行」文書など提出 内閣官房へ公文書館 新たに19件182点

記録に書かれた慰安婦に関する記述の部分
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 旧日本軍の慰安婦問題で、国立公文書館が新たに関連する公文書十九件百八十二点を内閣官房に提出したことが分かった。専門家は「軍の関与と強制連行を示す記述が随所にある」と指摘。一方、内閣官房は取材に「強制連行を示す記述は見当たらないという政府認識は変わらない」としている。
 十九件は、法務省がまとめた戦後の東京裁判やBC級戦犯裁判の記録。このうち「バタビア裁判25号事件」資料には、日本海軍のインドネシアの特別警察隊元隊長が戦後、法務省関係者に「二百人くらいの婦女を慰安婦として奥山部隊の命によりバリ島に連れ込んだ」と証言した記述があった。「ポンチャナック裁判13号事件」の判決文には「多数の婦女が乱暴な手段で脅迫され強制させられた」との内容が書かれていた。
 十九件は法務省から一九九九年度に公文書館へ移管されていた。市民団体から「慰安婦問題の政府調査に必要な文書では」との指摘を受けた法務省は、内閣官房に報告するのが妥当と判断。公文書館が今年二月、コピーを内閣官房に提出した。
 公文書館で十九件の大半を見つけた関東学院大の林博史教授(近現代史)は「軍が強制的に慰安婦にしたことを明確に示している」と述べた。
 内閣官房副長官補室の鳥井陽一参事官は「軍人が売春を強要したとして有罪判決を受けたことは認識している」とした一方、「個別の資料の評価はしていない。全体として見ると、強制連行を直接示すような記述は見当たらない」と話した。
 安倍政権は軍の関与と強制性を認めた九三年の河野洋平官房長官談話を踏襲する一方、二〇〇七年には「河野談話までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲による強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」との政府答弁書を決定している。


2015年末の日韓合意はなんだったんでしょう?日本軍の兵隊さんを慰安するためにご協力くださりありがとうございました、という謝礼であって、謝罪ではないと言うつもりなんですかね?安倍第一次内閣の時、強制性を示す証拠はない、と失言して国の内外からこっぴどく批判され、その後、失言を撤回したのではなかったですか?前世紀の歴史についてだけでなく、自分たちの政権の最近の歴史にも無知とは全くお話になりませんね。

2017年3月12日日曜日

日本を愛するキリスト者の会

 数日前に日本を愛するキリスト者の会という団体から4月22日に大阪で開かれる講演会の案内がメールで舞い込みました。私はこの団体の存在は知っていましたが、会員でもなく、以前、団体の趣旨についてメールで問い合わせたので私の宛名が向こうに残っているのかもしれません。

 講演者の一人、黒田禎一郎牧師は前世紀の90年代にオランダの日本語教会がヨーロッパの日本人クリスチャンのための夏の集いを主催した時に講師の一人でした。今回の演題は「日本人よ、自信を持ちなさい」です。団体の趣旨からして、講演の中身もおおよそ見当がつきます。この団体は、戦後の日本の教会は前世紀の日本がやった悪いことだけを強調する、自虐史観に影響されすぎているが、日本の歴史、日本人には良い面もたくさんある、それは日本が神様に愛されているからだ、と主張します。私も日本文化や日本の近代史に優れたところがあることは認めます。しかし、日本の歴史の負の部分も認めるのだったら、それを正直に、誠実に、勇気をもって正視することなしに、つまり神の前に罪をきちんと処理することなしに、「キリスト者の会」を名乗ることができるのでしょうか?内村鑑三のように、二つのJ、つまりJesusとJapanを愛する日本人クリスチャンになりたいものです。

 もう一人の講演者久保有政牧師の演題は「聖書の人種平等の教えを実現させた日本」です。この分野においても、日本は諸手を挙げて世界に誇ることはできません。聖書が日本人に知られるようになった近代において日本は国内でも国外でも人種差別をしてきたことは誰しも否定できません。クリスチャンではありませんでしたが、聖書の思想には無縁ではなかった文豪島崎藤村の「破戒」が部落差別を背景にしていることは周知のところです。関東大震災の時に単なるデマに扇動されて日本にいた朝鮮人や中国人を殴り殺したのも人種差別が根底にあったでしょう。戦前は朝鮮人は「半島人」として、中国人は「支那んチャンコロ」として軽蔑されました。15年にわたる日中戦争の間に日本が中国で重ねた悪行も日本人が中国人を神の前に平等な人種だと認めていたら起こり得なかったでしょう。

 いまだに「ヘイトスピーチ」なるものが日本ではまかり通っているのではないでしょうか。人種差別以外の何物でもありません。


 過去数年、鹿児島の郷里に戻ると、必ず、中学時代の英語の先生にお会いすることにしています。先月も90歳になられた先生にお会いしてきました。先生は私の郷里の中学校が初任地で、何年か務められた後、昇任の話が持ち上がり、そのためには別な学校に転勤しなければならない、ということでした。しかし、先生は私の郷里の部落民たちと親しい交流をしておられ、彼らから、転勤はしないでください、と懇請され、平教員として定年退職を迎えられました。最後の審判の時、「私たちがいつ先生にそんな親切をしてあげましたでしょうか』と訝る信徒たちに対して、「どうでもいいような、下積みのこの人たちに対して君たちがしてやったことは私に対してしてくれたのと同じなのだ」と教えられたイエス様のことを思い出します。郷里の英語の先生は聖書は少しはご存知でしょうが、クリスチャンではありません。

12.03.2017

無責任体制


最近九州の郷里に短期間滞在した時、ある日そこの薬屋に入ったところ人目につくところに以下のようなものが印刷して張り出してありました。

仏様のことば

お前はお前でちょう度良い
顔も体も名前も姓も
お前にそれは丁度よい
貧も富も親も子も
息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度よい
幸も不幸も喜びも
悲しみさえも丁度よい
歩いたお前の人生は
悪くもなければ良くもない
お前にとって丁度よい
地獄へ行こうと極楽へ行こうと
行ったところが丁度良い
うぬぼれる要もなく卑下する要もない
上もなければ下もない
死ぬ月日さえも丁度よい

これだと私たちは自分の言動に対して一切責任を問われることはない。私たちの言動が正しいか、間違っているかも問題にする必要はない。私は仏教については詳しく知りませんから、仏典のどこかにこういう思想が語られているのかは知りません。この貼り紙がいつ頃から張り出してあったのかは知りませんが、見て読んだ客もなんとも思わなかったのでしょうか。恐ろしい世界です。

12/03/2017