2023年5月7日日曜日

岸田首相韓国訪問

     岸田首相が韓国を公式訪問し、尹錫悦大統領と今日会ったことが報道されているが、徴用公問題に触れて、そのことを思うと「胸が傷む」と発言した、と言われている。これは、平成天皇がアジアのいくつかの国を訪問された時、公の場で言われたことと変わりない。天皇として韓国訪問の可能性が語られていた頃、当時の韓国の李大統領が、「こちらにいらして、胸が痛みます、と発言されるおつもりだったら、おいでいただかなくても結構です」、とあっさり断られたのを思い出す。

7.5.2023




2022年8月27日土曜日

 皇室の歴史観

今日の朝日新聞ディヂ版に

    「戦後生まれの初めの天皇として即位した陛下は、幼い頃から上皇ご夫妻のもとで平和の大切さや戦争の歴史を学んできた。

    上皇様は皇太子時代の会見で『どうしても記憶しなければならない』四つの日に、沖縄戦終結の日(六月二十三日)、広島原爆の日(八月六日)、長崎原爆の日(八月九日)、終戦記念日(八月十五日)を挙げ、毎年これらの日には上皇后美智子様とともに黙祷を欠かさない」

とあった。日本が始めた太平洋戦争、真珠湾攻撃の「十二月八日」が欠けているのは深刻な問題である。昭和天皇が開戦を宣言したのではなかったのか。


27.8.2022


昭和46年(1971年)には、昭和天皇が、香淳皇后とともにイギリスを訪問します。
滞在中に開かれた女王主催の晩さん会で、エリザベス女王は先の戦争について触れ、「両国民間の関係が常に平和であり友好的であったとは申すことができません。しかしこの経験ゆえにわたくしどもは二度と同じことが起きてはならないと決意を固くするものであります」などと述べました。

What did the emperor say in response?


20.11.2022

2020年1月7日火曜日

初めてのインド

はじめてのインド

2019年11月16日、土曜日の朝5時半、ロンドン経由で11時間の空の旅が終わり、チェンナイ国際空港に無事到着した。サヴァリカンヌ・バル博士が出迎えに来てくれていたが、彼と最初に出会ったのは2年前、マニラ近郊のフィリッピン聖書神学校で教えさせてもらった時の学生の一人だった。バルはエレミア哀歌についての博士論文を書いていた。その論文が完成し、博士号を授与され、インドの母校ヒンドスタン聖書神学舎(Hindustan Bible Institute & College = HBI)に戻り、旧約聖書の講師となり、私に一度教えに来てもらいたい、と頻りに慫慂されたのだった。バルはそのための準備に奔走し、私たちの一ヶ月の滞在中も何くれとなく親切に世話をしてくれた。

インド南東海岸にあるチェンナイは戦前はマドラスの名で知られ、タミル・ナードゥ州の首都で、人口5百万近い大都市である。私たちがインドへ出発する直前の日曜日、私たちが出席するオランダの聖公会での礼拝の時、牧師から出席者に今度のインド旅行について簡潔に説明してもらえないか、と言われて私たち夫婦は、ケシの花を胸に差して、かつてのイギリスの植民地へ向かおうとしていることを話すのが、なにか神の摂理のしからしめるところのように思えた。ちょうどその日曜は、11月の第二日曜、英連邦国では、前世紀の二度の世界大戦で戦死した英連邦国の兵士や一般市民の犠牲者を毎年追悼する日にあたっていた。太平洋戦争中、日本軍の犠牲として倒れたインド人は、大英帝国の臣民だった。

チェンナイに早朝到着したおかげで毎日朝7時半から午後1時まで4時間、週5日、これから4週間の授業に対する心備へができた。バルの車で市内のYWCAまで走り、一睡し、お昼を彼の奥さんと可愛い二人の坊やと一緒にいただき、神学校の宿舎に向かった。80の坂を越えた私たちのために一年で一番涼しい季節に来れるようにしてもらいたい、という私たちのたっての願いをバルは聞き入れてくれて、11月半ばからということになったのだが、それでも日中は29度から30度で、冷房の設備のある部屋でなかったら私たちは1週間ともたなかっただろう。後でわかったのだが、神学校の学生は、親が市内に住んでいても、全員構内の寄宿舎に入ることになっており、彼らの部屋には天井に扇風機がついているだけだった。

時差ボケもなんとかおさまって、神学校の構内にある、新カルバリ教会での日曜礼拝に出席し、新学期の最初の学内の礼拝に出させてもらってから、早速授業に取り掛かった。学生はその程度によって二つのグループに分かれていて、最初のグループは程度が高い方で、15人ぐらいの出席者で、最初の2週間はバルもほんとんど毎回同席してくれた。どちらのグループでも、聖書をその原語であるヘブライ語、アラム語、ギリシャ語で読んだ場合、例えば英語訳の聖書で読んだのでは見えてこないものがあることを、旧約、新約の中からいくつか具体的な箇所を読みながら検討しよう、というのであったが、これは、今年いのちのことば社から出版してもらった「聖書を原語で読んでみてはじめてわかること」の趣旨にほぼ沿った内容であった。第一のグループでは、それに加えて、聖書のアラム語の文法を4年前に出版してもらった私の入門書を使いながら学ぶことも加わった。学生は全員拙著を買っていた。7掛けの著者割引でも日本円で1.600円、床屋に行った時の散髪料金が日本円で180円というこの国では、小銭ではない。このことからだけでも、学生たちの熱意が十分にうかがわれる。

私が教えさせてもらったものは必修科目で、創立以来67年のこの神学校の歴史の中で聖書アラム語の授業は今回が初めてであった。前世紀前半に日本帝国主義の犠牲となって、いまだにその戦争責任の問題の処理が日本によって真摯に処理されないままになっているアジア諸国に2003年、オランダのライデン大学を定年退職して以来、毎年出向いて私の専門科目を教えさせてもらっている時の私の主義で、謝礼は一切いただかないことにしているので、今回も1ルピーも受け取らず、私たち二人の往復の航空券も自前であった。しかし、私たち二人をまるまる一月、冷房付きの宿舎の部屋に無料で泊めてくれ、そこの食堂で毎日、美味なインド料理を三食ご馳走してくれるのは神学校の予算には結構ひびいたのではないか、と推測する。こういったところから、神学校が私が教える科目の重要性を高く評価していたことが読み取れる。私の教えようとすることが学生にとって朝飯前の易しい内容のものではないであろうことは百も承知していたので、最初の週に、桂子に前に来てもらって、書家として名の通っていた義父の娘として、旧約聖書の中から「泣き泣き種を蒔く者は歓喜の声をあげて刈り入れする」(詩篇126:5)を達筆のヘブライ語で黒板に書いてもらった。2週間目の授業が終わりに近づいた時、聖書を原語で読むことによって、聖書理解に深みが加わり、翻訳だけで読んでいたのでは気づかないような大事なことが少なくないことが分かっただろうか、と尋ねたところ、「先生、確かにそうだ、と分かりました」、と全員が声を大にして返答した。授業中も、学生たちの目が輝き、首を縦に振っているのに気づいたことが少なくなかった。学生の中には、私に対して口頭で、あるいは桂子にフェイスブックで、聖書原語の研究に一生従事してきた専門家から教えてもらえたことをとても喜んでいる、と伝えてくれた。さらに一歩踏み込んで、学問上の知識を得られただけでなく、私の生き方、インドに教えに来てくれたその動機に目を開かれた、と言ってくれた学生もいた。このことは、バルや神学校のグプタ総長をはじめとして、何人かの職員からも私に伝えられた。

ここで、私の授業でどういうことを扱ったのかを一つの具体例を引いて紹介したい。ルカ7:36−50に登場するいかがわしい女性がパリサイ派のシモンのところでキリストが食事をしておられるところに忍び込んだ時の話をギリシャ語原文で読んだのだが、38節でキリストの足のことが3度も出ていることを指摘した。2度目と3度目は代名詞を使うこともできたはずであるのに、当時の慣習に従って、横になって食事をしておられるキリストの背後に立った彼女は「彼の足」に泥がいっぱいついているのに気づき、「彼の足」に雨のように涙を流し続け、綺麗に拭き続け、「彼の足」に激しく口づけし続け、高価な香油を流し続けた、というのである。私たちの感覚からすると、聖書の物語は時として言葉を節約しすぎているような印象を受けることがあるから、ここでの繰り返しは意図的、と思われる。それだけでなく、訪問客に挨拶がわりに接吻するというのは聖書の世界でも、欧米でも極めて自然であるが、足に接吻というのは尋常とは思えない。賓客もこれが普通ではない、と思われたらしく、自分が入ってきたときには通り一遍の接吻すらしてくれなかったシモンに向かって、その女の方に目を向けながら、自分が部屋に入った瞬間から彼女は自分の足に接吻することをやめなかった、と指摘し、「私の足に」を3度も繰り返された。インドで教えているために、あるところで読んだ話を紹介したい、という誘惑に勝てなかった。救世軍の創立者であるウィリアム・ブースの伝記に登場するエリザベス・ギーキーという見目麗しい、若い、スコットランド人の女性にまつわる話である。彼女はインドの片田舎、チェンナイからさほど遠くないナーゲルコイルという村で伝道していたのだが、一生懸命何年も努力してきたのに、これといった成果も上がらず、落ち込んでいた。ある日のこと、いい年格好の現地の男が辺り構わわずウンウン唸りながら彼女のところに担ぎ込まれてきた。見てみると、一方の脚にとてつもなく大きい棘が刺さっていて、抜けないというのだった。彼女には救急箱ぐらいはあっても、そういう場合に専門医が使う鉗子(カンシ)は持っていなかった。すると、彼女はやおら、自分の見事な歯で棘をガブッと噛んで引き抜いたのである。翌日、男は痛みも引き、家族や近所の人たちに伴われてお礼を言いにやって来た。それが契機で、インドの階級社会の最下層に位置する、非賎民の村から次々と入信して、洗礼を受ける者が出て来た。彼女の説教は依然としてわからないところが少なくなかったけれど、彼らにとっては、白人の美女が有色人種の自分たちの中の男の身体の一番きたないところに彼女の身体の一番綺麗なところをあてて助けてくれたその行動の方が大事だったのである。

チェンナイ入りして最初の月曜の夕方、「2019年文化行事」と題する神学校での催しに参加した。英語だけでなく、現地のいろいろな言葉での歌や、ダンス、短い劇、ゲームと盛りだくさんで、前面の画面に28個の手を描いて「キリストにあっては一つ」と出て来たので、有名なイスラエル民謡を桂子と二人でヘブライ語で歌わせてもらうことにした。歌詞は、詩篇133:1「見よ、兄弟が一緒に座っているのはなんと素晴らしく、楽しいことだろう」をそのまま引用したもので、これまで、私の授業の締めくくりに学生たちと一緒にヘブライ語で歌ってきたものだが、今回はその冒頭に歌うことになった。歌い終わってから、数字の28はヘブライ語のアルファベットで二字で書くことができ、そう書いた単語は「力」を意味する、一致、これ力なり、というわけである、と説明させてもらった。

二つのグループのどちらでも、最初の授業の時、私たちの今回のインドを訪問の動機を説明させてもらった。同じことは、神学校の礼拝で頼まれた最初の説教の時にも、また、校内の教会の礼拝の席上でもさせてもらった。私たち夫婦は現代における印日関係の中の極めて暗い部分を深く意識していることを伝えた。1942−43年に日本軍が敷設した悪名高い泰緬鉄道に関連して、何万人というインド人、主としてタミル人が強制的に使役され、筆舌に尽くしがたい状況のもとで膨大な数の死者が出たこと、彼らが銃撃の訓練の標的にされたり、まだ生きているのに殺されてその肉を日本兵が食べたりしたこともあった。英国人の戦争捕虜でこの地獄を辛うじて生き延びたエリック・ロウマックスの書いた「鉄道人」という本のなかに、ある時日本人が相当数のタミル人労働者を工事現場に連行して来たが、彼らは畜生以下の扱いを受け、虐待され、餓死させられた。ある時、彼らの宿舎にコレラが発生した。これを処理するのに日本軍が取った対策は、患者を外に連れ出して一斉に射殺するという風変わりなやり方だった、と書いてある。神学校は、わたしたちを近所の二つの高校に連れて行って、若い世代のインド人に話す場を設けてくれたが、彼らの70年前の先祖たちが見舞われたこの残虐な仕打ちにも触れた。

チェンナイでの最後の日、バルは私たちを市内観光に連れ出してくれた。私は、市内に歴史博物館があったら行ってみたい、と思って、前日ネットで探してみた。一つだけ可能性のある所のサイトを調べてみたところ、ギリシャ、ラテンの古典時代に関する展示物で、世界的にも有名なものがあることはわかったが、インド自体の現代史に関するものは皆無で、がっかりした。自国の市民が日本軍によって不当に受けた被害に対する無関心はかなり一般的のように見受けられた。バルが、ごく最近州政府が発行した高校の歴史教科書がネットで閲覧できると教えてくれたので、かなり厚い教科書に目を通してみたが、戦時中の日本軍による加害行為については何も出ておらず、唖然とした。この被害者たちは、日本政府と日本の皇室からだけではなく、自国政府からも忘れられたままになっているわけである。チェンナイにある日本国総領事館のサイトで「二國関係」の項を開いてみると、日印関係は1952年に締結された平和条約を嚆矢としていた。HBIに課せられているもっとも重要な使命の一つは、正義と慈愛の神についての教えを国内にあまねく届けることである、と理解されているのだが、私見によれば、この使命は、過去の卒業生、将来の卒業生が、このような犠牲者とその子孫に寄り添い、この辛い歴史を故意に忘れるのでなく、それに勇気を持って直面することによって達成されるのではなかろうか。このような歴史を背景に、風変わりな日本人老夫婦がインドを訪ねて来たと知ったら、キリストの福音に対する彼らの好奇心が多少は掻き立てられるかもしれない。

今回の交流は知的な、学問上の分野に限定されてはいなかった。私たちは人間として、クリスチャンとして接し合った。この辛い歴史にも関わらず、学生たちや神学校の職員たちが心底からの友情を示してくれていることに私たち夫婦が気づいたのは何度とあった。宿舎の部屋はしばしば蟻の大群と蚊に襲われた。アジアのどこでもそうであったが、今回も桂子は彼らの格好の標的とされた。首のあたりや、腕のあちこちに刺された跡が残っていて、授業中もしょっちゅう掻いているのに気づいた学生たちが、いろいろな民間療法を考え出して、手助けしてくれ、職員たちからも、気にかけてもらった。ある朝、早く、いつものように構内を散歩していた時、桂子は地面に落ちていた硬い木の実に足を取られて転び、一方の脚に見た目にも痛ましい怪我をした時もあの手この手で支援してもらった。また、授業が終わると、学生の一人が毎回私の重たい本とラップトップをリュックにきちんと詰めて、宿舎の部屋まで運んでくれた。最後の夕方にはバルが宿舎の部屋に来てくれ、彼が帰ると、バルの助手として旧約聖書を教えていて、私の授業に熱心に参加したパウジックとジアンがやって来て、一時間近くじっくりと交流を楽しんだ。二人とも私たちが来てくれたことに改めて感謝の意を伝えてくれた。

二つのグループのどちらの授業でも、最後には、前述のヘブライ語の民謡を歌い、写真を撮り、私たち夫婦にはどちらも、インドの伝統的な衣装を贈られた。滞在も終わりに近づいた時の神学校での礼拝の席上でも、神学校から同じような贈呈があって恐縮した。

2017年に、今回のような訪問の可能性について、バルに間に立ってもらって神学校の指導陣と交渉した時、この訪問の目的と、その根底にある動機について合意に達することができたが、今回、バル、学生たち、また神学校の職員たちとのいろいろな場での交流を通して、この合意が真剣に受け止められていることが理解できた。私ども夫婦は、前世紀の半ばに、日本軍によって無数のインド人に対して加えられた、絶対に正当化できない加害行為、残虐行為の歴史を真剣に受け止め、ささやかながら自責の念の表現として日本人クリスチャンとしてここに来ているのだった。神学校のグプタ総長は私宛のメールのに、「わたしたちの主イエスキリストの十字架の模範を示してくださり有難うございました。先生はキリストのように身を低くし、祖国に代わってキリストの愛を私たちに対して実践してくださいました。これは、わたしたちの主を模範として示してくださった大事な姿勢でした。神が先生を祝福してくださり、わたしたちの国民が先生の模範とわたしたちのための奉仕を忘れることがありませんように。先生がまた来てくだされるように神様が力を与えてくださることを望んでやみません。またいらしていただいて、わたしたちを支援してくださるように私どもの学校の門はいつも開いていることをお忘れにならないでください」、とあった。

ある日の午後、町に出て、大通りから引っ込んだところを歩いていたら、向こうからかなり高齢と見受けられる男性がびっこを引きながら歩い来るのに出会った。互いに近寄った時、相手は立ち止まってしばらく私を厳しい眼差しで睨んだ。日本兵による残虐行為の犠牲者だったのだろうか?

今朝の静思の時に読んだイザヤ書55章の11節の言葉が私の胸に強く響いた:

「私の口から出る私の言葉もこれと同じ。ちゃんとした結果が出ないままで私のところに戻って来ることはない。私の望むところを果たし、私が託した使命を必ず成し遂げる」

これまで16年にわたってアジアへ毎年出向いた時いつもそうであったが、今回も、わたしたちのささやかな試みに対してオランダのみならず、世界各地の多くの友人、知人が深い関心をもって見守ってくださり、側面から支援してくださったことに私たちは深甚の謝意を覚える。それなくして私どもがここまでこれたとは到底思えない。私たち日本人とアジアの同胞たちの間に本当の調和と一致を達成できるために、初老の私どもがささやかな努力ができるようにさせてくださった神様の御慈悲にはただ感謝のほかない。

村岡崇光
オランダ、ウーフストへースト

2019・12・28

2019年12月14日土曜日

安倍首相の真珠湾訪問が道徳教科書に載る

 妻のフェイスブックに誰かからの情報で、2016年末の安倍首相の真珠湾訪問のことが道徳の教科書に載っている、と伝えられてきました。私は、吐き気を催しました。この訪問を徳の模範として持ち上げる文部官僚の知性を疑います。
 2016年12月28日にこの場で書かせてもらったことをご参考までに下に貼り付けます。

14.12.2019


オバマ大統領、安倍首相真珠湾を訪問

オバマ大統領と安倍首相の真珠湾での演説

1) 安倍首相が、日本の敗戦直後から米国から多大の物的支援を得たことが敗戦の焼け跡から日本が立ち上がるのに大いに貢献したことに触れ、感謝の意を表しているのは評価します。米国は同様の援助を同じく敗戦国のドイツに対しても行い、ドイツ経済も日本と同じように目覚しい、奇跡的復興を遂げました。安倍首相はさらに言葉を続けます: 「戦後、日本が国際社会に復帰する道を拓いてくれたのは米国でした」と。しかし、日本は本当に国際社会に復帰し、ドイツと同じように受け入れられて今日に至っているでしょうか? 私は、甚だ疑わしい、と思います。その主たる理由は、日本が始めた太平洋戦争によって日本が背負い込むことになった負債がいまだにきちんと清算されていないからです。戦前と同じく、日本は今なおアジアの孤児です。近い将来にアジアにヨーロッパ連合(EU)に相当する組織が出現する可能性はほとんどありませんし、ドイツがEUの中で果たしているような指導的役割を日本が果たすような組織は現時点では考えられません。悲しい現実です。

2) 安倍首相は言葉を続けます: 「私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした和解の力です」と。オバマ大統領も和解を語ります。しかし、彼ら二人は膝を交えて真珠湾に始まり、広島•長崎で終わった日米間の武力抗争の経過をたどり、自分の国が犯したところの由々しい過ちを正直に、具体的に、言葉を濁さずに認め合い、相手国に対して与えたところの甚だしい損害、損失、苦しみに対して許しを請うたことがかつてあったのでしょうか? その時初めて、和解の道程は始まるのです。でも、終点はまだです。そのような意味での和解が達成されない限り、この二人の指導者が世界の他の国々に伝えようとしている和解の「力」なるしろものは何らかの意味あるものを生み出す力に欠けています。ワシントンのホワイトハウスの報道官が「この二人の指導者の真珠湾訪問は、かつての仇敵をも最も親しい同朋に変換し得るところの和解の力の見本である」、と言ったそうですが、少し言い過ぎではないでしょうか。安倍首相のように真珠湾は「寛容と和解の象徴」である、というのは妄言です。沈没した戦艦アリゾナの艦内になお眠るところの米軍の戦死者たちの中には、これを聞いて目をむいた人がいたかもしれません。日本国民を代表して語る身でありながら、「申し訳ありませんでした」、「アイムソリー」の一言も言えない人が、仇敵日本人に対する寛容の徳を彼らに向かって説教できるのでしょうか?

3) オバマ大統領の「国や国民として、われわれはどういう歴史を受け継ぐかを選択することはできない。だが、歴史から教訓を選び取ることはできる。われわれ自身の未来像を描くのに、その教訓を生かすこともできる」、という発言は原則論としてはまさにそうなのですが、問題はわれわれがどういう結論を引き出しているか、その結論の内容です。また、「復讐よりは和解の方がより豊かな報酬をもたらす」というのも含蓄のある発言です。

4) 今回両首脳が12月28日に真珠湾で会ったというのは偶然だったのか、何か訳があったのかははっきりしません。今年の12月7日の日本の新聞に、記者が真珠湾で本年95歳の米人の老兵から、なぜ安倍首相は今日来てくれなかったのか、彼に会って話し、謝罪の言葉が聞きたかった、もし聞けたらそれを受け止めるつもりがあるのに、と不満をぶちまけられたことが出ていました。今日からちょうど1年前、日韓両国はいわゆる「慰安婦」問題についての合意に達しましたが、これは単なる偶然なのでしょうか? 昨年の共同声明では安倍首相は被害者たちに対して心からお詫びと反省の気持ちを表明する」とあり、今回は「心から永劫の、哀悼の誠を捧(ささ)げます」とあります。今年の正月、天皇皇后両陛下がフィリッピンを公式訪問された時、太平洋戦争中日本軍の性奴隷として虐待されたフィリッピン人の慰安婦たちが天皇との会見を求めたものの、マニラの日本大使館の門は彼女らに対して冷たく閉ざされたままであった、と報道されました。ごく最近、日米の五十人ほどの歴史学者たちが、今回の真珠湾訪問に関連して安倍首相に質問状を送り、「真珠湾攻撃で亡くなった米国人を慰霊するのであれば、中国や朝鮮半島、アジア諸国の戦争犠牲者も慰霊する必要があるのではないかと訴えかけている」、と指摘したことが報道されました。さらにまた、「村山首相談話を継承し発展させる会」という市民団体が、真珠湾で戦死した米兵の慰霊に出かけるのならば、その足で、シンガポール、南京、ハルピンなどの同様の慰霊碑をも訪問すべきではないか、と訴えています。安倍首相による今回の真珠湾訪問も、昨年の日韓合意も、関係した指導者たちに誠意が全くない、とは言いませんが、基本的に政治的駆け引き、便宜を多く出るものではないような印象を払拭することができません。わたしは、たとえ演説の冒頭に「パールハーバー、真珠湾に、いま私は、日本国総理大臣として立っています」、と自己紹介したとしても、「まさにこの地点において始まった戦争」(英語原文では a war that commenced in this very place)というようなことを安倍首相が口走ることが許される、とは思いません。そのかわりに、「まさにこの地点において私の祖国が始めた戦争」だったらば、彼の誠意は明確に伝わり、説得力があったに違いありません。和解という概念は単に仲良くやっていくという以上の内容を持っており、持っていなければなりません。クリスチャンの立場から、私はこの点はきちんとしなければならない、と思います。主のご誕生を祝うこの時、主は、神と私たちの間の和解、私たち人間同士の間の和解を可能ならしめるために十字架にかかって命を捨てられたのですから、その犠牲を安売りしてはならないのではないでしょうか。

村岡崇光

28.12.2016
ウーフストヘースト
オランダ

2019年9月21日土曜日

著書、学術論文

私のこれまでの発表論文・著書

  これまで60年近く、与えられた時間、資産のかなりの部分を研究、著作にかけてきました。その営みに対する責任をとるという意味でも、これまで私が日本語で書いたもので公に出版されたものにどういうものがあるかを網羅的に公表することにしました。これまでも、世界的な道場で仕事をしてきましたが、日本語の著作は多少はあり、それを通して日本のキリスト教会、関連学会、あるいは一般読者との交流を求めようとしてきたことを読み取っていただけるかと思います。

  ここに公表した情報は本日(2019年9月21日)時点で該当するものを網羅しています。ごく少数ですが、日本で発表されたものの中に英文のものもありますが、ここには出しませんでした。
9(日本語の著作に限定)

 村岡崇光

I) オリジナル、非翻訳

Ia単行本
+ 土岐健治 「イエスは何語を話したか? 新約時代の言語状況と聖書翻訳についての考察」: II 「イエスと聖書翻訳 タルグム」, pp. 93-122. 東京:教文館、2016。

Ib単行本中あるいは叢書の一部
「士師たちの時代」、関根正雄(監修)『聖書の世界』 第2巻, 旧約 II, pp. 67-124; 「エズラ・ネヘミヤ時代」 第3巻, 旧約 III, pp. 177-216, 308-13, 「マカベア時代」, pp. 217-302, 313-15. 東京:講談社, 1970.
日本聖書学研究所編:「聖書外典偽典」(9巻) 「第一エズラ書」 1.19-66, 299-318; 「ベン・シラの知恵」 2.67-207, 361-510; 「ヨベル書」 4.3-158, 293-338, 「エチオピア語エノク書」 159−292, 339-89、 「シリア語バルク黙示録」 5.67-154, 367-402、 「使徒たちの手紙」  9.39-82, 397-422, 「預言者イザヤの殉教と昇天」 167-203, 446-67, 「ペテロの黙示録」 205−34, 468-74. 東京:教文館, 1975-82。
「シリア教会」、前嶋信次+(編)『オリエント史講座』 3「渦巻く宗教」, pp. 177-199; 「エチオピア教会」、pp. 290-304. 東京:学生社、昭和1982。
「七十人訳聖書」, 井筒俊彦+(編)『東洋思想』 I 147-86. 東京:岩波書店、1988。
「聖書の言語」、pp. 13-34, 鍋谷堯爾+(監修)「聖書神学事典」。東京:いのちのことば社、2010。
「アララク、エブラ、オストラカ、カトナ、ギルガメシュ叙事詩、楔形文字、クムラン文書、シロアム碑文、聖刻文字、聖書の言語(旧約)、聖書の言語(新約)、トーラー、粘土板、ヘルメス文書、ミシュナ、ムラトリ断片、モアブの碑石、ラス・シャムラ、ロゼッタ碑石」、泉田昭+(編)「新聖書事典」。東京:いのちのことば社、2014。

Ic論文
「パレスチナ系ユダヤ人アラム語の研究」、日本聖書学研究所編『聖書の思想・歴史・言語:関根正雄教授還暦記念論文集』, pp. 203-33. 東京:山本書店、1972.
「『ベン・シラの知恵』和訳に寄せて」 『福音主義神学 8 (1977)』 22−41。
「後期古典ベブライ語における名詞文」、日本聖書学研究所編「聖書の使信と伝達:関根正雄先生喜寿記念論文集」, pp. 318-38. 東京:山本書店、1989。
「古典ヘブライ語意味論研究の最近の動向」、『旧約釈義研究』(EXEGETICA) 9 (1998) 37-45.

II) 翻訳
ジェームズ・M・ストーカー「キリスト伝」 < James M. Stalker, The Life of Jesus Christ (1879). 東京:いのちのことば社, 1959, 2015.
ジェームズ・M・ストーカー「パウロ伝」 < James M. Stalker, The Life of St. Paul (1884). 東京:いのちのことば社, 1963.
舟喜順一監修 「聖書注解ー旧新約聖書全1巻」「エレミヤ」 pp. 617-649, 「使徒行伝」 pp. 915-57, 「ペテロの手紙I, II」 pp. 1158-79; 共訳(有賀寿)「箴言」 pp. 519-41, (村瀬俊夫)「マルコ」 pp. 819-54, (清信慎子)「ピリピ」 pp. 1058-65. 東京:みくに書店、1966.
ジェームズ・M・ストーカー「キリストの最期:主の裁判と死についての瞑想」 < James M. Stalker, The Trial and Death of Jesus Christ – A Devotional History of our Lord’s Passion (1879). 東京:いのちのことば社, 1968, 2007.
シュムエル・ヨセフ・アグノン「丸ごとのパン; 操の誓い; テヒッラ; イドとエナム; 永遠に」 ノーベル賞文学全集15, pp. 215-397 < Shmuel Yosef Agnon, Pat shelema, Shevu’at ’emunim, Tehilla, Ido ve-Enam, ‘Ad ‘olam. 東京:主婦の友社. 1971.
R.E. クレメンツ 「近代旧約聖書研究史―ヴェルハウゼンから現代まで」 (聖書の研究シリーズ) < R.E. Clements, A Century of Old Testament Study (Lutterworth Press: Guildford and London, 1976). 東京:教文館、1978。
H.H. ベンサソン 「ユダヤ民族史」 < H.H. Ben-Sasson, History of the Jewish People (London, 1977), 3:中世篇I、4:中世篇II。東京:六興出版,1977.
アハロン・アッペルフェルド「バーデンハイム 1939」 < A. Appelfeld, Badenheim ‘ir nofesh (1975). 東京:みすず書房, 1996.
「ダニエル書、エズラ記、ネヘミヤ記」. 東京:岩波書店、1997.
A. コーヘン 「タルムード入門 I」 < A. Cohen, Everyman’s Talmud (London, 1932). 東京:教文館, 1997.
関根正雄編「旧約聖書外典」上 (講談社文芸文庫)、「第一マカベア書」, pp. 15-130. 東京:講談社, 1998.
マルゲリート・ハーマー「折られた花:日本軍『慰安婦』ととされたオランダ人女性たちの声」 < Marguerite Hamer - Monod de Froidville, Geknakte bloem: Acht vrouwen vertellen hun verhaal over Japanse militaire dwangprostitutie (Delft, 2013). 東京:新教出版社, 2013.

「私のヴィア・ドロローサ:『大東亜戦争』の爪痕をアジアに訪ねて」. 東京:教文館, 2014.
「聖書を原語で読んでみてはじめてわかること」東京:いのちのことば社. 2019.

2019年5月11日土曜日

天皇の交代:追記

天皇の交代

オランダの代表的な全国紙、日刊紙であるNRCが五月二日の論説に平成天皇についての記事を発表しました。私はしばらく前からディジタル版しか読んでいないのですが、近所のオランダ人がこれをどう思うか、とその記事を回してくれました。それに対する私の回答の和訳をここに紹介します。

   記事の中にある以下の箇所に疑義を呈したい。
   「周知の通り、彼は謝罪をするところまではいかなかったが、彼の父の在任中に帝国軍隊が日本帝国の名において行ったところの多くの人権侵害に対して「悔悛」の情を表明したことは評価して良い」
   これは私には初耳です。いつどこで平成天皇が「悔悛」の情を表明されたのか知りたく思います。この文脈においては「悔悛」という表現は正しくない、と愚考します。オランダ語の表現に「悔悛は罪の後に来る」というのがあります。平成天皇が「私は心に痛みを覚えます」という発言を何度となくされたことは周知のところです。12年ほど前にシンガポールに短期滞在した時、現地の英字新聞に、平成天皇が公式訪問された時の記事が出ていました。晩餐会の席上で、「前の戦争中に、シンガポールの皆さんが本当に辛い思いをされたことを考えますと胸が痛みます」、と発言された、とありました。これだったら、シンガポールを公式訪問したノルウェーの大統領でも言える、人道的な同情心の表明ではないだろうか。もし陛下が「私の父の兵隊たちのおかげで。。。」とおっしゃっておられたら、現地での反響はすざましかっただろうし、そういうニュースが日本で報道されていたら、現在の日本の政治的状況は全く違ったものになっているのではなかろうか、と思います。
   何年か前に平成天皇の韓国訪問が話題になていた時、当時の韓国の大統領が「ただ、心が痛みます、と言うために来られるのだったら、ご足労には及びません」、と発言されました。
   NRCのこの論説委員は日本政府が外国人向けに頒布した天皇の発言の英訳を引用しているのかもしれません。敗戦70年に当たって安倍首相が行なった声明があります。時の安倍内閣の合意のもとに行われた声明でした。その中に「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきました」、とありますが、「反省」という単語が、同時に発表された駐日外国人報道関係者向けの英文にはここでオランダ人論説委員が使っている単語に相当する英語のremorseになっています。しかし、日本語の「反省」は、全国サッカー大会の決勝戦で負けたので、監督が選手全員を招集して反省会をしよう、というような時にも使われるもので、戦犯のような人道に悖る行為を自覚して改悛の情を表明する、というのとは全く違います。

                         2019年5月6日

ここまで書いてから、今日、平成天皇が敗戦70年の8月15日の全国戦没者追悼式の席上で、初めて「反省」という言葉を使われ、その後の三回の追悼式でもそうされたことを知りました。
   『ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
と、仰いました。これの公式の英訳にはdeep remorseと出ています。前記のオランダの新聞の論説委員は多分このことを指しているのか、と判断されますが、この発言は日本兵の戦死者と一般市民の中の犠牲者のことが言われているのである、ということは見落としてはならない、と私は考えます。
                        2019年5月11日

2019年5月10日金曜日

日本語による出版物

私のこれまでの発表論文・著書

  これまで60年近く、与えられた時間、資産のかなりの部分を研究、著作にかけてきました。その営みに対する責任をとるという意味でも、これまで私が日本語で書いたもので公に出版されたものにどういうものがあるかを網羅的に公表することにしました。これまでも、世界的な道場で仕事をしてきましたが、日本語の著作は多少はあり、それを通して日本のキリスト教会、関連学会、あるいは一般読者との交流を求めようとしてきたことを読み取っていただけるかと思います。

  ここに公表した情報は本日(2017年10月24日)時点で該当するものを網羅しています。ごく少数ですが、日本で発表されたものの中に英文のものもありますが、ここには出しませんでした。

出版発表作品
(日本語の著作に限定)

 村岡崇光

I) オリジナル、非翻訳

Ia) 単行本
+ 土岐健治 「イエスは何語を話したか? 新約時代の言語状況と聖書翻訳についての考察」: II 「イエスと聖書翻訳 タルグム」, pp. 93-122. 東京:教文館、2016。

Ib) 単行本中あるいは叢書の一部
「士師たちの時代」、関根正雄(監修)『聖書の世界』 第2巻, 旧約 II, pp. 67-124; 「エズラ・ネヘミヤ時代」 第3巻, 旧約 III, pp. 177-216, 308-13, 「マカベア時代」, pp. 217-302, 313-15. 東京:講談社, 1970.
日本聖書学研究所編:「聖書外典偽典」(9巻) 「第一エズラ書」 1.19-66, 299-318; 「ベン・シラの知恵」 2.67-207, 361-510; 「ヨベル書」 4.3-158, 293-338, 「エチオピア語エノク書」 159−292, 339-89、 「シリア語バルク黙示録」 5.67-154, 367-402、 「使徒たちの手紙」  9.39-82, 397-422, 「預言者イザヤの殉教と昇天」 167-203, 446-67, 「ペテロの黙示録」 205−34, 468-74. 東京:教文館, 1975-82。
「シリア教会」、前嶋信次+(編)『オリエント史講座』 3「渦巻く宗教」, pp. 177-199; 「エチオピア教会」、pp. 290-304. 東京:学生社、昭和1982。
「七十人訳聖書」, 井筒俊彦+(編)『東洋思想』 I 147-86. 東京:岩波書店、1988。
「聖書の言語」、pp. 13-34, 鍋谷堯爾+(監修)「聖書神学事典」。東京:いのちのことば社、2010。
「アララク、エブラ、オストラカ、カトナ、ギルガメシュ叙事詩、楔形文字、クムラン文書、シロアム碑文、聖刻文字、聖書の言語(旧約)、聖書の言語(新約)、トーラー、粘土板、ヘルメス文書、ミシュナ、ムラトリ断片、モアブの碑石、ラス・シャムラ、ロゼッタ碑石」、泉田昭+(編)「新聖書事典」。東京:いのちのことば社、2014。

Ic) 論文
「パレスチナ系ユダヤ人アラム語の研究」、日本聖書学研究所編『聖書の思想・歴史・言語:関根正雄教授還暦記念論文集』, pp. 203-33. 東京:山本書店、1972.
「『ベン・シラの知恵』和訳に寄せて」 『福音主義神学 8 (1977)』 22−41。
「後期古典ベブライ語における名詞文」、日本聖書学研究所編「聖書の使信と伝達:関根正雄先生喜寿記念論文集」, pp. 318-38. 東京:山本書店、1989。
「古典ヘブライ語意味論研究の最近の動向」、『旧約釈義研究』(EXEGETICA) 9 (1998) 37-45.

II) 翻訳
ジェームズ・M・ストーカー「キリスト伝」 < James M. Stalker, The Life of Jesus Christ (1879). 東京:いのちのことば社, 1959, 2015.
ジェームズ・M・ストーカー「パウロ伝」 < James M. Stalker, The Life of St. Paul (1884). 東京:いのちのことば社, 1963.
舟喜順一監修 「聖書注解ー旧新約聖書全1巻」「エレミヤ」 pp. 617-649, 「使徒行伝」 pp. 915-57, 「ペテロの手紙I, II」 pp. 1158-79; 共訳(有賀寿)「箴言」 pp. 519-41, (村瀬俊夫)「マルコ」 pp. 819-54, (清信慎子)「ピリピ」 pp. 1058-65. 東京:みくに書店、1966.
D.M. ロイドジョーンズ 「教会の権威」東京 みくに書店、1966.
D.M. ロイドジョーンズ 「教会一致の基礎」東京 みくに書店、1967.
ジェームズ・M・ストーカー「キリストの最期:主の裁判と死についての瞑想」 < James M. Stalker, The Trial and Death of Jesus Christ – A Devotional History of our Lord’s Passion (1879). 東京:いのちのことば社, 1968, 2007.
シュムエル・ヨセフ・アグノン「丸ごとのパン; 操の誓い; テヒッラ; イドとエナム; 永遠に」 ノーベル賞文学全集15, pp. 215-397 < Shmuel Yosef Agnon, Pat shelema, Shevu’at ’emunim, Tehilla, Ido ve-Enam, ‘Ad ‘olam. 東京:主婦の友社. 1971.
R.E. クレメンツ 「近代旧約聖書研究史―ヴェルハウゼンから現代まで」 (聖書の研究シリーズ) < R.E. Clements, A Century of Old Testament Study (Lutterworth Press: Guildford and London, 1976). 東京:教文館、1978。
H.H. ベンサソン 「ユダヤ民族史」 < H.H. Ben-Sasson, History of the Jewish People (London, 1977), 3:中世篇I、4:中世篇II。東京:六興出版,1977.
アハロン・アッペルフェルド「バーデンハイム 1939」 < A. Appelfeld, Badenheim ‘ir nofesh (1975). 東京:みすず書房, 1996.
「ダニエル書、エズラ記、ネヘミヤ記」. 東京:岩波書店、1997.
A. コーヘン 「タルムード入門 I」 < A. Cohen, Everyman’s Talmud (London, 1932). 東京:教文館, 1997.
関根正雄編「旧約聖書外典」上 (講談社文芸文庫)、「第一マカベア書」, pp. 15-130. 東京:講談社, 1998.
マルゲリート・ハーマー「折られた花:日本軍『慰安婦』ととされたオランダ人女性たちの声」 < Marguerite Hamer - Monod de Froidville, Geknakte bloem: Acht vrouwen vertellen hun verhaal over Japanse militaire dwangprostitutie (Delft, 2013). 東京:新教出版社, 2013.

「私のヴィア・ドロローサ:『大東亜戦争』の爪痕をアジアに訪ねて」. 東京:教文館, 2014.