2017年6月4日日曜日
衣食足りて礼節を知る
最近オランダの知人夫妻と雑談をしているとき、私たちの人生、特にいわゆる先進国、福祉国家における物欲のことに話が弾んだ。私たちは物質的にどこまで豊かになれば本当に満足できるのだろうか?私たちの物欲、貪欲には終わりがないのではないか、と思えてならない。これは、個人の人生だけでなく、団体、企業、国家についても言える。企業は毎年純益を前年比で増やしていないと、破産が目前に迫っているような錯覚に陥る。個人でも、年間収入の伸びが停滞すると、目の色を変える。子供が成長し、学費も嵩むようになれば、出費も確かに増えるから、収入は増えたほうが安心かもしれない。でも、子供も学校を終わり、社会人になり、親は退職していたらどうだろうか?使徒パウロが云ったように「食べ物と住むところがあればそれで私たちは十分としたい」(第一テモテ6:8)という人生観に根本的な欠陥があるのだろうか?私たち夫婦ももう年金生活者になって14年になる。三人の子供達もとっくに巣立って経済的には完全に独立しており、私たちからの仕送りは必要としない。また、彼らから仕送りをしてもらう必要もない。拙宅の居間兼客間に足を踏み入れられた方には一目瞭然のように、別に取り立てて言うような家具も、備品も、調度品も置いてない。もう十五、六年前に空き巣に入られた。この辺りは閑静な住宅地ということになっているので、今でも空き巣に狙われることは珍しくないらしい。しかし、私たちはその後、ただの一度も空き巣の被害には遭っていない。別に新しく、頑丈な錠を取り付けたわけでもない。家中探し回って、引き出しを開けっ放しにしてあったけど、めぼしいものが何も見つからずに、がっかりしたのか、この家に入っても時間の無駄だ、と思われたのかもしれない。それでも、私たち夫婦は、日常生活の中で惨めに思ったことはただの一度もない。医療保険料、光熱費、最低限の生活費も、多少ある預金にやたらと手を突っ込まなくとも払える、贅沢はできないし、別にしたいと思わない、それでも心身ともにまだ比較的健全で、読書、思索、私は研究も順調に続けられることを私たちの神様にただ感謝する以外ない。
戦後の祖国の全体的な姿勢は、物質的、経済的な復興に焦点が合わされ、精神的な、内面的な豊かさが犠牲にされてきたのではないだろうか。戦後処理、日本の軍国主義、侵略主義の犠牲になったアジア諸国との問題のきちんとした整理が、戦後72年経てもいまだにほとんど手付かずになっていて、国民の大多数が経済成長を最大の目標に掲げる政党を支持し続けているのも、このような視点から見るべきなのではないだろうか。何を食べ、何を飲み、何を着ようか、と心を煩わせないように、とイエス•キリストは教えられたけど、イエスは、ホームレスの人、着るものもろくすっぽなくて、真冬に公園でガタガタ震えながら、睡眠も取れない、というような人たちに向けてこの教えを説かれたのではなく、日本の現在の大多数の、中産階級に向けて語られたのではないだろうか。毎年、短期間帰郷したとき、日本のテレビのスイッチを入れると、料理番組がどのチャンネルでもあまりに多すぎてヘドが出る。
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村岡先生、この「衣食足りて」の内容の大部分には、強く共感します。しかし、一点だけ、イエスは、常に、社会から疎外されて立場を小さくされてきた人たちと関わり手当をしてきたということから、イエスは、そういう人たちの側に「神は立つ」ということの具現者だったと思います。「何を食べ、何を飲み、・・」が、「人」の解放された姿ならば、野宿者などの路上生活者や困窮者の人たちが「解放」されるために、中流層の人たちは力を合わせて、社会保障が充実するために働くべきです。それが、共に解放されることだと思います。アイヘンバーグの「炊き出しの列に並ぶイエス」という版画では、配給する側ではなくて炊き出しを受ける側にイエスが並んでいる姿が描かれています。鶴ヶ岡裕一 拝
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