2017年6月18日日曜日

イエスの目線

2010年に北ボルネオのコタキナバルのサバ神学校で新約聖書のギリシャ語初級を5週間教えさせてもらいました。学生は中国語系とマレー語系と半々でした。彼らの中にはこの必修科目をかなりの負担に感じている学生がいることが感じられ、なんとかしてやる気を起こすように心がける必要を痛感しました。ギリシャ語の冠詞を学んでいたとき、「君たちは中学で英語をやったとき、どういう場合にthe bookと言い、どういう場合にa bookと言うのかを覚えるのにすごく苦労したはずだ。君たちの母国語のどちらにも冠詞はない。ところが、ギリシャ語には定冠詞に24もの形があって、英語だったらみんなtheで訳せるんだから、本当に同情に耐えない」と言い、ルカ伝15章の有名な「放蕩息子の譬え」の購読の時間に、我が子の帰宅を待ち侘びていた父親がある日、息子が戻ってきたのに気付き、「可哀想に思って」、まだ遠くにいたのに駆け出していって、抱きかかえて接吻した、と20節に書いてあるけど、「可哀想に思って」と訳されているギリシャ語の原語は「断腸の念に駆られて」としたほうがもっといいと思う、と「断腸之念」と黒板に書いて、漢語のこの表現は紀元3世紀、古代中国の桓温(カンオン)があるとき従者を連れて旅に出、森の中を通っているとき、従者が樹の間に子猿を見つけたので、長旅の慰みにと思って捕まえて連れて歩いた。ところが、その母猿が二人に見え隠れしながら後を追い、飲まず食わずで百里余りも行ったところで疲労困憊、路上に倒れて死んだのだけど、物音に気付いた従者が引き返して猿の腹を切り裂いてみたところ、我が子のことを憂い、念ずる母親の腸は全部細かくちぎれていた、という故事に基づくものらしい、と話したところ、中国系の学生は、「先生、この話をギリシャ語で読むことでそんなに深く味わえるんだったら、24の定冠詞の形も覚えるのは苦になりません」、と言いました。

今朝祈りの時間に私はルカ7章に出ている短い話を読んだんですけど、イエス•キリストがガリラヤのナインという町を通られたとき、ある寡婦が一人息子に死なれて、その埋葬のために村の人たちと一緒に墓地へトボトボ歩いて行くのに出くわされ、「可哀想に思って」、「もう泣かなくともいいよ」と言って、息子を生き返らせてやられた、という話ですけど、そこでも、放蕩息子の譬えの場合と同じギリシャ語が使われています。そして、今朝初めて気がついたのですけど、スプランフニゾマイというこの動詞は新約聖書で合計12回出て来て、放蕩息子の譬えの場合以外は、いずれも、なにか痛ましい場面に出くわされたときイエス•キリストご自身がどう感じられたかを表現するのに使われています。たいていの場合はそばにいた人たちが受けた印象を表現していますが、一度はイエスご自身がその言葉を口にされたことになっています。自分の話を、三日間もろくすっぽ食事もせずに熱心に聞いてくれている群衆を見て、「私は断腸の思いに駆られる」と言われた(マタイ15:23)というのです。放蕩息子の譬えを語りながら、イエスはその父親と気持ちが重なられたのではないでしょうか。

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