中国へ再び
私は、ライデン大学を2003年に定年退職してから、毎年、最低五週間アジアの大学や神学校で専門のヘブライ語、ギリシャ語、聖書などを無料で講義させてもらっています。大東亜戦争に日本と戦った米国、英国(とその連邦国、オーストラリア、ニュージランドなど)、オランダなどの兵士や一般市民に対する非道な行為のみならず、19世紀末からつぎつぎに日本の植民地となった台湾、韓国、さらに戦争中に日本が占領したアジア太平洋地域の国に対しては膨大な被害、苦痛を負わせたにかかわらず、そのきちんとした整理は未だにできていません。その一つの例が、先日投稿した、所謂「慰安婦」問題です。朝鮮半島が最大の犠牲者を出したことは事実ですが、中国を含むその他のアジアの諸国にも多数の犠牲者が出ました。戦争中、インドネシア(当時はオランダの植民地)を占領した日本軍は、原住民の女性たちの中からも何千人という犠牲を出しました。また、そこに住んでいたオランダ国籍の女性にも百人を超える犠牲者を出しました。オランダ人犠牲者については、2013年に新教出版社から私がオランダ語から和訳した「折られた花:日本軍『慰安婦』とされたオランダ人女性たちの声」に出ています。
2014年に日本聖書協会と教文館が私のアジア訪問の記録を「私のヴィアドロローサ:大東亜戦争の爪痕をアジアに訪ねて」と題して出版してもらいましたが、本書の出版後、2014年には台湾に2度目の訪問に出かけ、昨年は韓国とインドネシアを同様に再訪しました。その記録は日本語では出版されていませんので、ここにご参考までに添付します。また、今年4月から5月にかけて中国を再訪しましたので、その報告も添付します。
今年のもの以外のものは、これも英国のAuthorHouse UKという出版社から英語で出版されました。
なお、「ヴィアドロローサ」とは、イエスキリストが不当な裁判によって十字架によるはりつけを宣告されたのち、法廷から刑場のカルバリの丘まで、ご自分がかけられることになっている十字架を無理矢理に背負わされて歩かされたその通路のことを指し、「悲しみの道」という意味のラテン語であることを蛇足ながら付け足します。
付記:長くなりますので、2014,2015年のものは別の便で投稿します。
2度目の中国
私は、妻の桂子と共に、中国を再度訪問する恩典に浴した。10年前に、香港中文大学で教えさせてもらった時に私のホストを務めてくださった李炽昌(リーアーチー)教授が退職後、北京から南に400キロほどのところにある済南(ジナン)市の山東大学で昨年から一学期だけ教える仕事を始められ、同大学文学部のユダヤ教•比較宗教学研究所で英語で聖書ヘブライ語の初級を6週間教えてもらいたい、また、同教授に古典シリア語の手ほどきをお願いしたい、というのであった。
4月14日に済南入りし、最近チューリッヒ大学で旧約学で博士号を取得した若手の中国人学徒の姜振帥(ジャンジェンシュアイ)博士からからバトンタッチされて、週3日、一回三時間ずつ12人の学生に、アメリカ人の書いた英語の教科書を使って教えることとなった。学生の能力にもかなりのばらつきがあり、学部の学生、修士課程に籍を置く者、博士論文に取り組んでいる者までいた。全員とても熱意に燃えていたが、ヘブライ語はかなり手強そうであることは程なくはっきりしてきた。さらにまた、英会話に手こずっている学生もいた。毎回出席したジェンシュアイも、学生たちもみんた礼儀正しく、接しやすく、聴講生の妻も私も何度となく日常的なことで手助けをしてもらった。会話の中国語がちんぷんかんぷんな私たち夫婦には大助かりだった。ある日のこと、学生の一人が構内の床屋までついて行ってくれたが、通訳の彼がそばにいてくれなかったら、暑い済南の太陽のもと、床屋を出るとき何か頭に掛けるものが欲しいと思ったかもしれない。別な学生は、私たちが南京へ出発する日、朝早く大学の正門のところで待っていてくれて、私たちが間違ったタクシーに乗らないように、あるいは雲助にひっからないように心配りしてくれた。
6週間の滞在中、アーチー以外にも、8年前に来たときに結ばれた友情の絆を確認する機会に恵まれたのは幸いであった。私の授業の教室のあった建物は27階建てで「知新楼」の名が付いていたので、学生たちに「温故知新」という表現のあることに触れた。8年前に上海の華東師範大学でヘブライ語を教えさせてもらったときホスト役を務められた張纓(ジャンイン)さんが、私たちに会うためにわざわざ上海から出て来てくださった。
ある週末は、私たちが済南から出かける番となり、8年前と同じく今も南京大学でヘブライ語を教えているジェレマイアに会いに出かけた。彼が教えている研究所の寛大な計らいで、中国人が当然のこととして誇りにしている高速列車で経費一切向こう持ちで「なぜ聖書を原語で読むのか?」という題で講演をするために、南京へ2泊3日の旅に出かけた。南京駅に出迎えてくれたジェレマイアが、出会い頭に、「歩行に問題はありませんか?」と尋ねた。8年前に南京を訪問したときとは違って()、今回は、前日に済南で買ったばかりの靴は私の足にぴったりだ、と答えると、「でもー」と言ってラップトップと本数冊入った結構重い私の鞄を持ってくれた。
今回の訪中で、済南と南京以外でも、何人かの新しい知人が出来た。アーチーの紹介で、北京の中国人民大学の李丙权先生の招待で、南京での講演とほぼ同じ内容の話をすることになり、オランダへ出発する前々日に講演が行われ、50名を超える出席者で好評であった。また、そのとき、通訳をしてくださった、ギリシャ、ラテン語の他にヘブライ語も教えておられるオーストリア人でレーブ(中国名は雷立柏)先生とはその後も交流が続いている。
中国人学生や学者たちとのこういった交流はいまなお緊張している日中関係を双方が意識した上で行われ、色々な席上でこのことが話題となり、意見の交換が行われた。
済南に着いてから、8年前に読んだ本多勝一の「中国の旅」を読み直した。田中角栄が北京で日中共同声明に調印した1972年発行のこの名著は、その前年、著者が中国各地を一月余り行脚し、15年戦争の犠牲者たちに会って、その証言を聞いてまとめたものであった。前回読んだときは見落としたのであるが、済南からだけでも8万人を超える労働者が強制的に、または騙されて北の撫順の炭鉱に送り込まれたのであった。1937年の上海攻略のときの日本軍による蛮行を体験した虹橋の金月妹は彼女の家族20名のうち17人もが虐殺されたことを本田に語った。8年前にこの箇所を読んだときは、虹橋は上海郊外の寒村に過ぎなかったが、今回は福岡から上海経由で北京に向かうとき、北京行きの便に乗り換えた飛行場が虹橋にあり、80年近い前の歴史が胸に迫ってきた。このことを上海の張纓さんにメールしたところ、「先生はもうたくさんなさってくださったのですから、過去の歴史の重荷にこれ以上煩わされないようにしてください」という返事が戻ってきた。でも、「どうやってこの辛い過去の記憶を投げ出すことができるんでしょう? 何のためにここへやってきたんでしょう?」としか私には答えられなかった。
南京の二日目、8年前同様ジェレマイアに伴われて南京大虐殺紀念館を訪ねた。後日、そのときの印象をまとめてもらいたいとの依頼を受けたので、以下にその和訳を添付したい。()
5月14日、私は家内と一緒に南京大虐殺紀念館を訪ねた。これで2度目であるが、最初の訪問は8年前で、今回同様、南京大学ユダヤ学研究所のジェレマイア(孟振华教授)に連れて行ってもらった。私たちが最初に知り合ったのは10年前、私が香港中文大学で旧約聖書を教えさせてもらったときだった。過去8年の間に紀念館は相当に増築されていた。8年前と同じく、そこに展示されているものに日本人の私は圧倒された。我々の前の世代の同胞が、ここで、また中国各地でどうしてこんなひどいことができたのだろうか? ある部屋の一方の壁全面が犠牲者の名前で埋め尽くされていた。ゆうに3000を超える人名であったが、忍耐強く、丁寧に案内してくださった紀念館の職員の張博士にも漏らした通り、これはもちろん氷山の一角に過ぎない。別な部屋には揚子江の岸に放り出された100を超える死体の山を描いた壁画があった。犠牲者の中に一人の女性の裸体の姿があり、強姦されたのちに、殺害されたのであろうが、その傍らに幼児が手をかざして泣いている姿は見るに忍びなかった。
南京は私には特別の意味を持っている。亡父村岡良江は敗戦時、航空参謀陸軍中佐としてここに駐在していた。父は南京虐殺の翌年(1938年)に中国の別の所から転勤してきたようである。ある展示室の壁に、南京をいろんな方向から同時に攻略した日本軍の部隊名とその指揮官たちの名前が出ていたが、そのなかに父の名が無いのを見て私はホッと溜め息をついた。父は、戦後南京で行われた軍事裁判にも、東京での極東軍事法廷にも証人として召喚されなかった。
今回も、紀念館が老弱男女の訪問客で溢れているのを見て力づけられた。心なしか、ときとして冷たい視線を感じることもあった。中国人らしい、私と同年代かもっと年配の人とすれちがうと、直視することはできず、自然に目を落とした。
多くの展示に、戦時中の日本の新聞記事の切り抜き、日本軍の公文書、従軍兵士の私的な手紙や日記などの一部が添えてあって、これが単なる作り話で無いことを証拠立ているのは大事であった。
一通り見終えたところで館長の張博士の部屋で昼食をご馳走になった。日本人らしき入館者を見かけなかったので、日本人の訪問者もあるかどうか尋ねてみたところ、入り口で旅券の提示を求めるわけでもないので、わからない、とのことだった。前日、ジェレマイアと南京大学の現代中国史が専門の姜(ジャン)先生と夕食をご馳走になったとき、最近日本の首相三人が紀念館に来た、と言われたので、現役の首相でしたか、と問うたところ、「元」首相だった、ということだったので、安倍首相が今来たら画期的で、いまだに「膠着」状態の中日関係は劇的に好転するでしょうが、それでは物足りないですね、と答えたことを皆さんに申し上げた。
紀念館に無料で入れてもらい、案内までつけてくださったことに対するお礼のつもりで、二月前に出版された「私のヴィアドロローサ」の英語版を差し上げた。2003年にライデン大学を定年退職して以来、前世紀の前半に日本帝国主義の犠牲となったアジア諸国に毎年無料で専門の講義に出かけて来たことの記録であるが、これは2014年の暮れに出版された日本語版に多少加筆したものであると漏らしたところ、そちらも一冊いただけないだろうか、とのことで、たまたま持ち合わせていたものを差し上げた。これで、肩の荷だけでなく、内心の荷が些か軽くなったような気がした。祖国の負の歴史について語ったり、書いたりして、私の資産がただの一元たりとも増えることには耐えられないので、南京大学と、同大学での講演をヴィデオに録音した団体から頂いた謝礼を紀念館に寄付したいと申し出たところ、館長の張さんは、南京大虐殺()の生存者(中国語では「幸存者」)を経済的に支援する基金に加えましょう、と言って受け取ってくださった。
昼食が終わって、今度は、これも館員の張亮さんの案内で、最近公開された所謂「慰安婦」問題をもっぱら扱った建物の方に移動した。かつて慰安所があったところらしく、紀念館に隣接していた。
最初に入った部屋には高齢の70名の犠牲者の写真が、名前つきで壁に貼りつてあった。日本軍によって苦しめられたとき、この人たちはみんな若かったはずである。もう老境に入ってから、何十年と抱えて苦しんできた過去を公にすることに踏み切られたのであろう。それがために、身内との関係にヒビが入ったり、世間から冷たくあしらわれるようなこともあったに違い無い。しかも、日本軍の性奴隷にされたこのような犠牲者は、中国人に限っても、何万人といたはずであるから、大多数の女性たちは口を閉ざし、深い傷を抱えたまま鬼籍に入られたのであろう。
高名な日本人ジャーナリスト本田勝一の著書の中に、日本兵が中国のどこかの村に近づきつつある、という情報が入ると、村人たちは「獣」に警戒するように即刻通知を受けた、とあるが、本田は動物は強姦はしない、という動物学者が書いているのを引用している。牡牛は、発情していない、あるいはその気の無い雌牛に無理やり乗りかかりはしない、というのである。これを読んだとき、私は金槌で頭をぶん殴られたような気がした。強姦、輪姦をほしいままにした日本兵は犠牲者の中国人女性たちの人間としての尊厳を踏みにじっていたわけであるが、天皇陛下を総帥としていただいて中国に派兵された日本兵たちはそういう行動によって人間としての自らの尊厳を足蹴にしていたことに気づかなかったのは悲劇というほかない。日本兵は獣以下であったことになる。案内役の張さんにこの話をしてから次に入った部屋の壁には「獣群」と題する展示があった。
別な部屋の壁には老齢の犠牲者の写真のわきに彼女の若いときの写真が貼ってあったが、目を見張らせるような絶世の美人で、夜毎に日本兵の性欲の餌食にされることが彼女にとってどれほど辛いことだったか、と思わされた。
展示が中国人犠牲者に限定されていないのは評価に値する、と思った。朝鮮人、フィリッピン人のみならず、日本人犠牲者のことまで出ていた。1942年に公演された中国のオペラ「秋子」の背景になっているこの悲劇の女性のことは初めて知った。結婚直後に慰安婦として強制的に中国へ連れてこられたのであるが、召集令状を突きつけられて夫も中国戦線にわたり、ある日、駐屯地の慰安所で、足を踏み入れた部屋で自分の愛妻と鉢合わせになった、という実話を基にした作品である。性奴隷制度の問題は民族や国境の壁を超えるものである。この犠牲者たちの人間としての、女性としての根源的な尊厳が侵されたのである。ある部屋のガラスの展示ケースの中に各国語でこの問題を扱った本が並べてあったが、当時はまだオランダの植民地であったインドネシアで犠牲となったオランダ人女性たちのことを扱った2008年出版の私の共著が入っているのを見て懐かしくなった。これも同じように日本軍に性を強要された8人のオランダ人女性の声を記録したものを私がオランダ語から和訳して、新教出版社から「折られた花」の題で3年前に出版されたものを一冊寄贈した。
この展示も終わり近くになったとき、ある犠牲者の石像の前に立った。「とどまるところを知らない涙」と銘打ってあり、「お願いです、この人の涙を拭き取ってください」と書いてあった。どくどくと彼女の頬を流れ落ちる涙は人工的な装置でできているものとわかってはいても、そのまま立ち去ることはできず、そばにあった籠から手ぬぐいを一本取り出して、数分間そーっと頬を拭いてあげた。
紀念館が発行した絵葉書を閉じたものを記念にいただいたが、その表紙に「和平の舟」とあり、素晴らしい、と思ったが、もう少し考えてみて、紀念館から出帆する舟の帆には「正義及和平之舟」と刻んであるべきではないか、と思えてならなかった。でなければ、この舟は途中で難破して、目的地に辿り着かないのではないか。紀念館の至るところに展示されているようなとてつもないスケールの日本軍による不正、蛮行はしかるべく処理されなければならない。正義の要求することにはきちんと対処すべきであり、何が何でもともかく平和というのは本物の平和ではないだろう。
済南でのある週末ジェンシュアイ夫妻が町外れにある、72の泉が湧きでる有名な趵突泉公園に連れ出してくださったが、私たち夫婦にとって特に目を惹いたのは済南惨案紀念堂であった。15年に及んだ日中戦争の引き金となった1931年の満州事変より前の1928年5月3日、済南に居た日本人12名が蒋介石軍によって殺害されたことに対する報復として日本軍が少なくとも3,000人の済南の中国人を惨殺したことにちなんだ紀念堂である。私の座右の銘である「前事不忘 後事之師」が館内の壁に刻んであった。「前事」の代わりに「往事」としたものもあったが、趣旨に変わりはない。夕方、ジェンシュアイ夫妻のために一席設けたとき、「紀念堂には親に連れられて子供がたくさん来ていましたが、あの子たちは学校でこういった歴史を教わるだけでなく、家庭でも親から話を聞くんでしょうか?」と問うたところ、「今の若い世代は、大多数が楽しい未来を目指しています」ということだった。南京で南京大学の姜先生と語らったとき、戦後世代の中国人が、彼女の研究分野の核心である現代中国史にもっと目を向けるように努力しなければならない、という点で意見の一致を見出した事を思い出した。
この点で、学生たちからの直接の反応は私に希望をもたせた。拙著「私のヴィアドロローサ」を返しに来た学生の一人は、中日の歴史についての彼の見方が少なからず変わったことを述べ、私が済南でやっていることを大変ありがく思う、と言ってくれたが、同じようなことを博士課程にいるもう一人の学生からも聞いた。6週間の授業では、ヘブライ語以外のことでも、貴重なことをたくさん学びました、と言った学生も何人かあった。
ジェンシュアイはかなり分厚い教科書を全部済ませる事ができたのに驚き、またご満悦のようだった。私の講義が終わりに近づいたとき、研究所所長の傅有徳(フユデ)先生がわざわざ教室に来られ、無給の講義を謝し、また学生たちから好意的な反応を得ていることを伝えてくださった。
いつものとおり、歌詞を詩篇133:1からとったイスラエル民謡「ヒンネマトーヴ」をヘブライ語で全員で合唱して6週間の授業を締めくくった。そのあと、私たち夫婦は、豪華な中華料理に招待された。私の講義に対するアーチーからの心のこもった感謝の言葉を拝聴し、いくつか結構なプレゼントまでいただいたところで、私が起って、山東大学が私の再度の訪中の動機に暖かい理解を示してくれ、6週間の長期にわたって身に余る宿まで供してもらったこと、またユダヤ教•比較宗教学研究所の職員、アーチー、ジェンシュアイ夫妻、学生たちにいろいろな形で暖かい友情を示してもらった事に深甚よりの謝意を表した。また、過去6週間の間に私が言った事、した事の中にはかれらの辛い過去を思い出せるようなものがあったかもしれないけれど、アーチーの挨拶の中にあったように、「忘却は島流しに終わり、記憶は救済を齎す」ことを付言した。これは、昨年他界した元西ドイツ大統領のワイツゼッカーがナチス敗北40年にあたって西ドイツの国会で行ったあまりにも有名な、「荒野の40年」という演説にも引用されている、ユダヤ先哲の格言である。過去を振り返る事なくして、前向きに未来を云々する事はできないし、過去なくして現在も未来もないのである。日本の敗戦以前に日本が中国で働いた不正、犯罪行為は当時の日本帝国主義の責任であり、帝国主義の復活は絶対に許せないが、中国人民と日本国民とは友好関係を維持しなければならない、という中国政府の公式見解にはなんとなくしっくりしないものを感じることも伝えた。故周恩来の「恨罪 不恨人」(罪は憎むが、人は憎まず)という立場にはまったく同感であるが、例えば、中国人女性を強姦、殺害した日本兵が「学校の先生に洗脳された」と言って逃げられるとは思えない。詩篇106:6に「私たちは先祖たちと共に罪を犯しました」とある。この詩はそこに列挙されている罪が犯されてから何世紀も後に詠まれたことは疑いを容れないから、詩人の同時代の同胞を昔の先祖たちの共犯者にしていることはあり得ない。詩人は更に言葉を続けて、「彼等は自分たちが犯した罪、それにも拘らず神様が優しく許してくださったことをすぐ忘れてしまった」(13、21節)と言う。詩人は、自分が属する民族との一体感を表明し、先祖の犯した罪を肯んずることはできないけれども、彼等との連帯感を維持したい、全員が過去の歴史の暗いページからも学び、前車の轍を踏むことのないように、という熱い願いを表現しているのではなかろうか。
学生たちがヘブライ語を容易に音読できるようにという趣旨で、旧約聖書の中から15節ほど取り出して、ヘブライ語で暗記し、教室で、原文を見ずに音読してもらうことにした。済南に着いて間もなく、街へ食事に出ようとしたとき、門のところに「出入平安」と書いてあるのが目に留まり、詩篇121:8を暗唱聖句の一つに加えることにした。「あなたが出るときも、帰ってくるときも主がこれから永遠にあなたを見守っていてくださいますように」とある。中国の大都会は一旦通りへ出ると、歩行者だけでなく、自転車、バイク、モーター付き荷車に乗っている者にとっても危険極まりないのである。この聖句を学生たちに音読してもらったところで、数ヶ月前にオランダの自宅で桂子が体験した事を語った。ある日の夕方、二階に上がって行き、踊り場にたどり着いたところでフラフラっとして後ろ向きに16段を真っ逆さまに転げ落ちた。幸いに骨一本折れず、3ヶ月もしないのに、こうして中国まで来れた。詩篇の箇所は「あなたが昇るときも、降りるときも」と書き換えても良いのではないか、と付言した。済南に来る前に私たちは鹿児島の郷里で1週間を過ごした。もしも、福岡空港からの出発を10時間後に予定していたら、熊本地震に巻き込まれて、旅程の大幅な変更を迫られるのみか、北京までの二人分の片道切符を買う羽目になったであろう。オランダからの途中、北京で乗り換えるのにターミナルが違っていたおかげで、福岡行きに乗り損ない、想定外の宿代、福岡までの片道切符と、費用はやたら上乗りされることになったのであるが、不寝番の主は私たちを哀れんでくださり、7週間の海外滞在中、道で転んだこともなければ、自転車にぶち当たられた事もなく、階段を転げ落ちたこともなかった。
帰宅して電子版の「東京新聞」のサイトを開いたところ、すさまじい記事が目に飛び込んできた。「三菱マテリアル 強制連行3000人超と和解 中国側に自主的謝罪」というのが記事の題であった。三菱は昨夏から戦時中の強制労働の犠牲者たちと交渉を続けていたのだが、犠牲者たちの人権侵害の事実を率直かつ誠実に認め、痛切なる反省の意を表明し、深甚なる謝罪の意を表し、被害者一人当たり10万元を支払い、慰霊塔建設のために一億円を、今なお行方不明の被害者の調査のために2億円を拠出することで合意に達したのである。済南で6週間過ごした者として、日本円で一人170万円の賠償金は決して小銭ではないことがわかる。すでに2007年に一部の被害者は補償を要求したのであるが、最高裁は1972年締結の日中共同声明を盾にとってその要求を却下した。これが爾後の日本政府の姿勢として現安倍内閣もそれを受け継いでいる。したがって、今回の合意は、三菱マテリアルが、独自に、自主的に、日本の司法の介入もなしに達成されたものであることが極めて重要である。被害対象者は3700人余りであるが、これは太平洋戦争中日本が連行した中国人強制労働者総数約3万9000人の一割にも満たない。今後、他の日本企業も相当なプレッシャーを感じることであろう。彼等も、三菱マテリアルに範を採ることを切望してやまない。強制労働を課せられたのは中国人に限らない。戦争捕虜ですらその犠牲となっている。それにしても、同じような行動を何十年も前に採った同盟国ドイツに比べてなんとも遅々たる動きであった。Better than never, 遅くともせぬには勝る、と思って自らを慰めるしかないのだろうか。いずれにしても、これは近年稀なる朗報で、深甚よりの賛意を表せざるを得ない。
2016年6月10日
オランダ、ウーフストヘースト
村岡崇光