2016年12月29日木曜日

オバマ大統領、安倍首相真珠湾を訪問

オバマ大統領と安倍首相の真珠湾での演説

1) 安倍首相が、日本の敗戦直後から米国から多大の物的支援を得たことが敗戦の焼け跡から日本が立ち上がるのに大いに貢献したことに触れ、感謝の意を表しているのは評価します。米国は同様の援助を同じく敗戦国のドイツに対しても行い、ドイツ経済も日本と同じように目覚しい、奇跡的復興を遂げました。安倍首相はさらに言葉を続けます: 「戦後、日本が国際社会に復帰する道を拓いてくれたのは米国でした」と。しかし、日本は本当に国際社会に復帰し、ドイツと同じように受け入れられて今日に至っているでしょうか? 私は、甚だ疑わしい、と思います。その主たる理由は、日本が始めた太平洋戦争によって日本が背負い込むことになった負債がいまだにきちんと清算されていないからです。戦前と同じく、日本は今なおアジアの孤児です。近い将来にアジアにヨーロッパ連合(EU)に相当する組織が出現する可能性はほとんどありませんし、ドイツがEUの中で果たしているような指導的役割を日本が果たすような組織は現時点では考えられません。悲しい現実です。

2) 安倍首相は言葉を続けます: 「私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした和解の力です」と。オバマ大統領も和解を語ります。しかし、彼ら二人は膝を交えて真珠湾に始まり、広島•長崎で終わった日米間の武力抗争の経過をたどり、自分の国が犯したところの由々しい過ちを正直に、具体的に、言葉を濁さずに認め合い、相手国に対して与えたところの甚だしい損害、損失、苦しみに対して許しを請うたことがかつてあったのでしょうか? その時初めて、和解の道程は始まるのです。でも、終点はまだです。そのような意味での和解が達成されない限り、この二人の指導者が世界の他の国々に伝えようとしている和解の「力」なるしろものは何らかの意味あるものを生み出す力に欠けています。ワシントンのホワイトハウスの報道官が「この二人の指導者の真珠湾訪問は、かつての仇敵をも最も親しい同朋に変換し得るところの和解の力の見本である」、と言ったそうですが、少し言い過ぎではないでしょうか。安倍首相のように真珠湾は「寛容と和解の象徴」である、というのは妄言です。沈没した戦艦アリゾナの艦内になお眠るところの米軍の戦死者たちの中には、これを聞いて目をむいた人がいたかもしれません。日本国民を代表して語る身でありながら、「申し訳ありませんでした」、「アイムソリー」の一言も言えない人が、仇敵日本人に対する寛容の徳を彼らに向かって説教できるのでしょうか?

3) オバマ大統領の「国や国民として、われわれはどういう歴史を受け継ぐかを選択することはできない。だが、歴史から教訓を選び取ることはできる。われわれ自身の未来像を描くのに、その教訓を生かすこともできる」、という発言は原則論としてはまさにそうなのですが、問題はわれわれがどういう結論を引き出しているか、その結論の内容です。また、「復讐よりは和解の方がより豊かな報酬をもたらす」というのも含蓄のある発言です。

4) 今回両首脳が12月28日に真珠湾で会ったというのは偶然だったのか、何か訳があったのかははっきりしません。今年の12月7日の日本の新聞に、記者が真珠湾で本年95歳の米人の老兵から、なぜ安倍首相は今日来てくれなかったのか、彼に会って話し、謝罪の言葉が聞きたかった、もし聞けたらそれを受け止めるつもりがあるのに、と不満をぶちまけられたことが出ていました。今日からちょうど1年前、日韓両国はいわゆる「慰安婦」問題についての合意に達しましたが、これは単なる偶然なのでしょうか? 昨年の共同声明では安倍首相は被害者たちに対して心からお詫びと反省の気持ちを表明する」とあり、今回は「心から永劫の、哀悼の誠を捧(ささ)げます」とあります。今年の正月、天皇皇后両陛下がフィリッピンを公式訪問された時、太平洋戦争中日本軍の性奴隷として虐待されたフィリッピン人の慰安婦たちが天皇との会見を求めたものの、マニラの日本大使館の門は彼女らに対して冷たく閉ざされたままであった、と報道されました。ごく最近、日米の五十人ほどの歴史学者たちが、今回の真珠湾訪問に関連して安倍首相に質問状を送り、「真珠湾攻撃で亡くなった米国人を慰霊するのであれば、中国や朝鮮半島、アジア諸国の戦争犠牲者も慰霊する必要があるのではないかと訴えかけている」、と指摘したことが報道されました。さらにまた、「村山首相談話を継承し発展させる会」という市民団体が、真珠湾で戦死した米兵の慰霊に出かけるのならば、その足で、シンガポール、南京、ハルピンなどの同様の慰霊碑をも訪問すべきではないか、と訴えています。安倍首相による今回の真珠湾訪問も、昨年の日韓合意も、関係した指導者たちに誠意が全くない、とは言いませんが、基本的に政治的駆け引き、便宜を多く出るものではないような印象を払拭することができません。わたしは、たとえ演説の冒頭に「パールハーバー、真珠湾に、いま私は、日本国総理大臣として立っています」、と自己紹介したとしても、「まさにこの地点において始まった戦争」(英語原文では a war that commenced in this very place)というようなことを安倍首相が口走ることが許される、とは思いません。そのかわりに、「まさにこの地点において私の祖国が始めた戦争」だったらば、彼の誠意は明確に伝わり、説得力があったに違いありません。和解という概念は単に仲良くやっていくという以上の内容を持っており、持っていなければなりません。クリスチャンの立場から、私はこの点はきちんとしなければならない、と思います。主のご誕生を祝うこの時、主は、神と私たちの間の和解、私たち人間同士の間の和解を可能ならしめるために十字架にかかって命を捨てられたのですから、その犠牲を安売りしてはならないのではないでしょうか。

村岡崇光

28.12.2016
ウーフストヘースト
オランダ




2016年12月25日日曜日

政治的駆け引きとしての真珠湾訪問

日米の歴史学者50人程が安倍首相の真珠湾訪問に関連して質問状を送付し、『真珠湾攻撃で亡くなった米国人を慰霊するのであれば、中国や朝鮮半島、アジア諸国の戦争犠牲者も慰霊する必要があるのではないかと訴えかけている。』
と、報道されています。安倍首相のみならず、彼を迎える米国側も、この出来事を日米間の政治的駆け引きとしてしか見ていない、としか思えません。日本が仕掛けた大東亜戦争を本当に悔いているのならば、日本軍による犠牲者は、質問状にある通り、米国人に限りません。
ちょうど昨年の今頃、韓国との間に締結された所謂「慰安婦」問題に関する合意書もそうでした。今年の正月天皇皇后両陛下がフィリッピンを公式訪問されたとき、フィリッピン人女性たちの中で戦時中日本兵の性欲の餌食にされた人たちが両陛下に会いたいと日本大使館に出向いたのに、大使館は受け付けようとしませんでした。日本軍の性奴隷制の犠牲者が韓国人女性に限られなかったことは既定の事実であり、日本が彼女らに対して真摯に謝罪したいのであれば、国籍の違いは問題ないはずでず。「慰安婦」問題をめぐって日韓の間が長年こじれており、それが米国の東アジア政策に困難な状況を作り出している、という認識に立って日韓の政権が太平洋の東の大国を気にしながら到達した合意であったとしか思えません。
米国も、安倍首相が謝罪しないということは、オバマ大統領が広島で謝罪しなかったことを「理解」してくれた、だったらおあいこだ、という浅薄な政治的思考が透けて見えます。相手に対して行った悪事を認め、謝罪して初めて和解は成立するはずです。

2016年12月8日木曜日

続真珠湾

今日の朝日ディジタル版がホノルルでの昨日の式典のことを報じた記事の最後に

元軍人のルー・コンターさん(95)は「安倍首相は今日の式典に来るべきだった。会って話をしたかった。首相は攻撃について謝罪するべきで、それを私は受け入れたい」と訴えた。

と結んでいますが、その通りだ、と思います。責任をうやむやにする私たち日本人の発想、姿勢の根源的な欠陥が現れています。

私は今年7月に家内に同行して、彼女の長兄の葬儀に出席するためホノルルを初めて訪れました。一日、時間をとって真珠湾に出かけ、昭和20年9月東京湾で日本の無条件降伏文書の調印式の舞台となった戦艦ミズリー号を見て回りました。その時日本人のガイドから聞いたのですが、ミズリー号が沖縄戦に参加していた時、特攻隊に攻撃され、舷側に軽い損傷を被りましたが、それだけですんだそうです。艦上に散乱している飛行機の残骸を米軍の海兵たちが海に放り込み始め、特攻機の操縦士の遺体も海に投げ込もうとしていた時、艦長のカラハンが、「彼はもう死んでおり、我々には無害である。軍務に忠実で命がけでそれに徹し、我々の艦にこんなに接近するほど操縦士としての技術も相当なものであった。きちんとした水葬をしてやるべきだ」といましめ、翌日軍楽隊も呼び出されて水葬が行われた、という話でした。

2016−12−8

2016年12月7日水曜日

安倍総理真珠湾へ

今月下旬に安倍総理が真珠湾を訪ねることが広く報道されています。目的は、犠牲者の慰霊、戦争反対、世界平和の声を上げるため、謝罪の意図はない、ということです。

1941年12月7日の日本軍による犠牲者だけが念頭に置かれているのではないかもしれません。しかし、75年前の日本軍による真珠湾攻撃の米軍人、一般人に限定して考えますと、太平洋戦争末期の沖縄戦における米軍の戦死者を日本人が弔うのとは違います。真珠湾の場合は卑劣な奇襲攻撃であり、それだからこそ、日本は米国から蔑まれ、米国人はその直後からRemember Pearl Harborを掛け声として戦意を煽り続けたのでした。

日本の総理大臣として真珠湾を訪ねるのが初めてだ、として騒がれ、アメリカ側にもそれを評価しようという向きもあるようです。

アメリカ側には、日米の和解にもつなぎたい気持ちがあるようです。しかし、謝罪なしの和解は絶対に有り得ないです。安倍総理は、日本が真珠湾攻撃を敢行したことを別に悪いことをした、とは思っていないのでしょう。真珠湾につづいて日本が侵略攻撃したアジア太平洋諸国に対しても心から謝罪の気持ちは表明されていません。せいぜい同情です。ご愁傷様、です。慰霊、とはそれにほかなりません。米国の議会での安倍首相の演説も同じでした。同情なら加害者でなくても表明します。昨年8月14日の安倍声明もさして変わりはありません。昨年暮れに韓国との間に合意された所謂「慰安婦」問題についても、安倍首相が犠牲者に対して心底からお詫びの気持ちを持っているのならば、韓国大統領と会談のためにソウルを訪ねた時、犠牲者たちにお会いして、土下座して謝罪ができたはずです。また、日本大使館に面して立っている慰安婦の像の前でそれができたはずです。ただ口先だけの「外交辞令、美辞麗句」で済まされることではありません。

憲法第9条を削除し、現憲法を抜本的に改定しようという安倍政権、アメリカに右へ倣えして自衛隊をどこにでも派遣できるようにしよう、という政権の「戦争反対、世界平和」の掛け声が世界の有識者にまともに受け止められる、と思っているのだったら、情けないこと限りなしです。哀れです。

2016年10月4日火曜日

再び台湾へ

真夜中に近く、少し私が混乱していたようで、2014年の韓国、インドネシア再訪のことは日本語版「私のヴィアドロローサ」に出ていますので、ここに昨年の台湾再訪の記録を貼り付けます。

二度目の台湾

私たちは6年前の初夏に7週間お世話になった台北市の中華福音神学院で10月6日から12月2日までの8週間お世話になる幸いに浴した。前回と同じく旧約学担当で今は学務局主任も兼任の胡()准教授(英語名ウェズリ)がホスト役を務めてくださった。担当したのは旧約聖書アラム語と旧約聖書の古いギリシャ語訳である70人訳であった。いずれも毎週6時間、あわせて12時間教えることとなった。

アラム語の方は、参加者はヘブライ語の基礎はもう習得していることを前提にしていたので、今年の7月に出版されたばかりの私の聖書アラム語読本を使って文法の基礎を最初の週に概観し、早速ダニエル書2章から講読にかかり、アラム語の部分の最後の章である7章まで読み終え、残った一時間は、死海写本中の有名な、アラム語で書かれた「創世記外典」中の第20欄、聖書では族長アブラムが「君は別嬪さんだ」(創世12:11)だけで済ませているのに物足りなさを感じた著者がサラの美貌を微にいり細にいり描写しているところを読んだ。9人の参加者のうち6人までが女性だったので興味津々であった。

70人訳の方の16人の参加者はヘブライ語、ギリシャ語いずれも知っていることを前提として、簡単な概論の後、私が過去数年の間に発表した70人訳に関連した英語の論文を土台にして学びを進めた。サムエル記下11章から13章前半までを読んだときは、通常参照されるヘブライ語原文、70人訳だけでなく、死海写本中のヘブライ語の断片や、普通に読まれる70人訳より古いと想定されるギリシャ語訳も読んだので程度は高くなった。学生はみんなコンピューターを使っていたので、普通のヘブライ語原文や70人訳は英語や中国語の訳を画面で簡単に参照出来るけれど、古いギリシャ語訳はまだ何語でも翻訳は出ていないので、学生にとっても手強かった。学生の一人から「難しい」、とこっそりこぼされたとき、聴講生として参加していた妻の桂子は「でも、あんまり易しかったら退屈するんじゃない?」と慰めた、とあとで打ち明けられた。学生のなかには、2009年出版の私の70人訳辞書を90ユーロもはたいて買った人もいて、その熱意にはほだされた。

アラム語の時間に一人の学生が質問した。「教会の長老達から、アラム語の勉強なんかになぜ時間を費やされるんですか?、伝道とか信者の世話とかの方が大事じゃないんですか?、と尋ねられたらなんと答えたら良いんでしょうか?」 聖書を原語で読んだからとて解釈上の問題がすべて氷解するわけではないが、現代語訳だけを読んでいたのでは分からない、いろいろな解釈の可能性が見えて来るし、どんなにすばらしい翻訳でも翻訳しきれないニュアンスが分かるようになる、そのおかげで自分の聖書理解も深まり、それは説教にも反映されて来るだろうから、それは一般信徒にも裨益することは間違いない、というのが私の回答だった。具体的な例として、聖書の原語と違って、中国語のように名詞の単数複数の違いを表現しない言語では、ダニエル書で、ダビデの神をさすときは、ダビデ自身やその3人の同僚達も、異教の王達でさえ「神」という名詞を単数形で使っており、彼らが命がけで一神教に徹したことが見えてこない。また、創世記38:18節は「彼女(タマル)は彼(ユダ)によって妊娠した」と訳すのが普通だけど、ヘブライ語原文を見れば絶対にそうは訳せないことはヘブライ語を勉強し始めてまだひと月もたっていない学生にだって分かる、「彼女は彼のためを念って妊娠した」としか訳せず、そうすると、ベツレヘムの人たちが新婚の花婿のボアズに向かって「主がこの若い女(ルツ)によってあなたに賜る子によって、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように」(ルツ4:12)と言ってお祝いの言葉とした理由が分かるし、タマルがこのルツ、その他の二人の女性と並んで、イエスキリストのご先祖としてキリストの系図に名を連ねるに至った(マタイ1:3)わけも分かる、というようなことを語った。

授業のなかで学生がした質問の程度も高く、私が出した質問に対する彼らの回答のなかにも私がそれまでに見落としていたようなことを示唆するようなものもあって、彼らの聖書原語に対する熱意だけでなく、学問的な程度の高さも伝わって来た。

学生達のなかには6年前に教えた学生も3名いた。彼らは単位を必要としているわけではなかった。彼らは、なぜ私が彼らの神学校に来たかは知っていたが、最初の授業の時に学生全員に私の動機を語った。日本の近代史、50年間の日本の植民地であった台湾で日本が何をしたか、敗戦後の台湾に対する日本の態度についての私の見方を彼らに押し付けるつもりは毛頭なかったけれども、8週間の接触を通して私の真意は伝わったように思う。また、私達夫婦から単に聖書原語についてだけでなく、クリスチャンとしての生き方について非常に貴重なものを教えられた、と個人的に打ち明けてくれた学生が少なくなかった。ヘブライ語の文法上の現象を説明するのに私が漢詩の五言絶句の一つを黒板に書いたところ、年配の学生の一人が以下のような七言絶句を献呈してくれ、私の生き様を見事に表現してくれた。
村鄉少年起東瀛
岡山洋海闖西行
崇神愛人精閃語
光啟後生榮主名

韓国から来たという学生の一人は将来中国に伝道に行くつもりだ、ということだったが、日本人の私に自分の訓練の一端を担っていただいていることを感謝します、と言われたので、私も、日本人でありながら、韓国人の教育に携われることは望外の喜びであり、特権であることを伝えた。

今回も行動半径を神学校の外にも広げ、台北のいろいろな台湾人や日本人に接触した。
前回大変お世話になった江春光さんは86歳で尚健在で、何度か食事もごちそうしてくださり、日本人としての生い立ち、現在の心境を忌憚なく語ってくださった。今回最初にお会いする前に、昨年師走に日本聖書協会・教文館から出版された拙著「私のヴィア・ドロローサ:『大東亜戦争』の爪痕を訪ねて」も読んでいてくださり、植民地時代の後半、日本は傲慢になり、敗戦の悲哀を味わったのはそれも一つの原因ではないか、と言われ、前回のように、親日一辺倒ではないような感触を受けた。
もう一人の、80歳半ばの台湾人女性は、拙著の中に私たちが6年前に、日本軍の性奴隷としてなぶりものにされた台湾人女性を訪問したことに触れているのに言及しながら、あのような人たちは看護婦募集の新聞広告を見て、応募したのではないだろうか、と言われた。6年前にはそのことを確認しなかったが、今回、台湾人「慰安婦」を支援するために働いている現地の団体の事務所を訪ねた時、現在までのところ犠牲者として特定された59人のうち、当時花柳界に身を置いていたのは一人だけで、あとは応募して前線に行ってみたら、話が全く違っていて、抗議し、帰宅したくても許可されなかったのであるから、これは実質的に強制売春にほかならない、ということが分かったので、その旨後日先ほどの台湾女性にお伝えした。80の坂を超えた、日本人として生まれ、日本人として、日本語で教育を受けた世代の台湾人の場合は、江さんの場合もそうだが、日本の植民地から解放された後に大陸から乗り込んで来た蒋介石の一味よりは日本人の方がまだましだった、として、我慢して生き抜いて来た、という複雑な過去を背負っておられるので、彼らの日本観をぶった切りにするのも躊躇した。
ある午前中、台北市婦女救援社会福利事業基金会の康(カン)事務局長を訪ねて慰安婦問題に対する取り組みについて意見を交換したが、話が済んでから、事務所からそう遠くないところに、慰安婦問題についての恒久的な展示をする場所が準備中であり、来年8月開館の予定である、として案内してくださった。加害者は勿論であるが、被害者も不当に受けた被害の歴史を忘れずに記憶し続けることが大事ではないか、そういう意味でもこのような施設が出来ることは素晴らしい、と申し上げた。

台北には日本語で礼拝をしているキリスト教会が三つあるが、その二つで日曜日の説教も依頼され、創世記32章から「君の名は?」の題で話をさせてもらった。また、聖書研究会の指導も二度頼まれ、そういった接触を通して、台湾在住の日本人としてあるべき姿勢についての意見の交換も出来た。最近日本人学校の教員として派遣されて来た、という一人の方は歴史を記憶することの必要な点で全面的賛意を表された。

数年前に創立された台湾日本語聖書教会の陳(チェン)加壽子牧師は、礼拝で説教をさせてくださっただけでなく、拙著を買って読んでくださり、私たちのアジア旅行への支援を表明してくださった。

中華神学院校長の蔡(ツァイ)先生の教会の、主として大学関係者の集まりに一夕招待されて私のアジア旅行についての話を求められた。私の話の要点は「前事不忘後事之師」であることを皆さんに申し上げた。
終わってから、一人の女性が近寄って来られ、祖父は今でも日本には絶対旅行したくない、と頑張っています、と言いながら私を抱きしめてくださった。

国際日語教会のうすき牧師は、前回の訪台の折、1930年に台湾原住民と日本人との間に悲劇的な衝突のあった霧社にご一緒くださったのだが、今回も、台北から車で一時間半ぐらいの宜蘭(イラン)の原住民の寒渓教会までの遠出を計画してくださり、台北の教会の会員数人と出かけた。台日の関係の話になった時、ご自分も原住民である通訳の女性が、植民地時代の日本は台湾の近代化に絶大な貢献をしてくれ、人種的差別もしなかった、と強調された。それに対して、私見として申し上げたのは、植民地経営は慈善事業ではなく、究極的には本国の企業の利益、利潤を目指すものであり、道路や鉄道、港湾施設が建築されたのも、現地人のためを思ってなされたものではなく、台湾から上がる資源や、農産物などを効果的に輸送するためであったのではないだろうか、ということである。イエスがある時、今のレバノンの方に足を伸ばして活動されたとき、ユダヤ人でない土地の女が気の狂った娘をなんとかしてください、とお願いしたところ、自分の子供にやるはずの食事を犬にやるわけにはいかない、と驚くべき発言をして断ろうとされた。しかし、女もそれで引き下がろうとはせず、仰せの通りではありますが、犬ころでも食卓の下に落ちたくずを貰って食べます、と言って、さすがのイエスもこれには降参されて癒してあげられた、という話(マタイ15:21−28)を引用し、植民地時代の台湾人もおこぼれに与った、ということではないのだろうか、と申した。台湾中央大学で「外国語の学び方」についての講演を依頼して来られた劉(リウ)氏も、日本総督府が石門に1945年に完成させた大規模なダムに案内してくださったが、これも同じであろう。また、台湾の戦前派の人たちが、大阪帝大より先に日本が作ってくれたとして誇りにしている台北帝大も、1945年時点で、学生総数1761人中、台湾人は350人だったという記録が残っており、内地人の学生と同じくらいあるいはそれ以上に優秀な台湾人が多数閉め出されていた、と言って間違いではなかろうし、こういう人種差別は当時の台湾の高校でも公然とまかり通っていたことを、植民地政策の専門家の故矢内原忠雄が名著「帝国主義下の台湾」で指摘していることも付言した。寒渓教会の黄(シャット)牧師を囲んでの談話の席上で、同牧師が、原住民の間では新しい人間関係がはじまる時、その絆を象徴的に表現するために、ひとつの杯から酒を飲むという習慣があったのを、当時の日本は、これは野蛮で、非衛生的である、として禁止したが、それは原住民の伝統的な文化に対する深い侵害であった、と発言された。日本は、保安上の理由から原住民から一切の銃を取り上げたが、彼らにとっては、銃は殺人のための武器ではなく、狩猟のために必須の道具であったのだから、これも彼らの生活基盤を根底から破壊するものだったのではないのか、と申し上げた。かてて加えて、道路工事だとかなんだとかいって農繁期であろうとお構いなしに狩り出されたり、村に駐在している日本人巡査に妻や娘を陵辱されたりというようなことが重なって1930年の霧社における原住民による武装蜂起が起こったのであろう。殺害された日本人の犠牲者の息子が後年、復讐では人間関係は修復出来ない、として原住民の間に宣教師として日本から来たという人の話も出たが、その宣教師は、130人余りの日本人犠牲者に対して、日本は直ちに4,000人以上の兵を投入し、毒ガスまで空中から投下して「討伐作戦」を展開し、原住民の間に4,000人以上の犠牲者を生んだ、ということはご存知だったのだろうか、と思わざるを得なかった。この事件を描いた「セデック・バレ」というDVDを今回台湾へ出発する直前に観たが、討伐作戦を指揮する日本軍の将校が、「日本は彼ら蛮人を文明人にしようとして来たのに、われわれの方が野蛮な戦術をとることを余儀なくされている」と呟くシーンがあるが、その史実性はともかく、極めて印象的であった。
6年前に、その時の学生の一人であったジェームズに伴われて高砂義勇隊の戦没者記念碑を訪ねたが、そのジェームズが、今回アメリカから私に会いにわざわざ戻って来てくれて、その時のもう一人の学生でこれもアメリカから戻って来たグレイスと日本料理店でご馳走になったが、今回の訪台で特に記憶に残っていることの一つは義勇隊の稀な生還者の一人との出会いであった。前述の陳牧師との繋がりで、本年92歳という日本名を中野宇吉さんというご老人に二度、長時間にわたって体験談を伺うことが出来た。17歳の時志願して、訓練を受けた後南洋へ派遣された、というのである。幸いに生きて戻っては来れたものの、彼だけでなく、すべての台湾人に言えることだが、日本の敗戦の結果として、台湾は最早日本の植民地ではなく、台湾人も日本の臣民ではなくなった。それのみならず、中野さんのような帰還兵たちに対して戦後、日本から、その犠牲、努力を認める、顕彰するようなジェスチャーが何一つなされていないことに対して中野さんのような人たちはいい知れぬ不満を抱いておられる。帝国陸軍将校であった筆者の亡父は戦後軍人恩給をもらい、死後も母が続けてもらっていたこと、しかし赤紙一枚で召集された内地の日本兵には一銭も出なかったことを中野さんに語ったものの、指を切って血書まで出して志願した中野さんのような人にはもう少し違った対処の仕方があるのではないか、と同じ日本人として慚愧の念に堪えなかった。しかも、中野さんは、ブーゲンビル島で、米軍飛行機によって撃ち落とされた山本五十六元帥の日本機の墜落現場にも行き、元帥の遺体を鄭重に埋葬した、というのであるが、戦後山本家から何の連絡もなかった、というのである。(この報告をお読みになった方で、元帥のご遺族と連絡出来る方法をご存知の方は、是非私までご連絡いただきたい) 中野さんはまだいくらでもお話しになりたかったようだったけど、時間切れで切り上げざるを得なかった。ご高齢にも拘らず、驚くべき記憶力で、「恩賜の煙草」を歌い出されたときは、私は行きどころに困った。戦時中の軍歌を歌いながら、反戦デモに行く、と言ったもう一人の生き残りの高砂義勇兵のことをここで思い出したので、軍歌「戦友」はご存知だろうか、とかもをかけたところ、知っている、ということで、二人で合唱した。中野さんたちは戦時中、日本軍によって給与の一部を強制的に貯金させられたのに、その支払いも受けていない、ということであった。払い戻すから申し出るように、ということを数年前にテレビで流した、というような情報もあるけど、日本政府が一人一人に個別に連絡するのが建前ではないか、と思われて仕方がない。わが祖国は慰安婦だけではなく、こんな犠牲者も台湾人の間に多数に出して、未だに頬かむりしているのである。6年前に訪ねた高砂義勇隊戦没者記念碑の建設に日本が一銭たりとも寄付した、とは記憶していない。中野さんのご子息は日本の神学校に学び、そこで知り合われた丸山陽子さんと結婚、ご夫婦で台北で山から大都会に出て来て苦労している原住民達のための教会を指導しておられるのだが、丸山さんが、植民地時代の日本のやったことには、結果として台湾人を益した面も少なくはないけど、当時の日本人、日本企業の動機にはしばしば問題があったという理解を示され、私たちの考え方が一致しているのを確認した。別れ際に中野さんが、私のことは「兄」と呼んでください、と言われた。では、私たちのことは「弟、妹」にしてください、とお願いした。

中華福音神学院の職員達からは私が教えに来たことに対して何度もお礼を言われ、蔡校長や、ウェズレイや彼のもとで働く事務員のエミリー(彼女も6年前の生徒の一人)、文書保存部門で働く、6年前に知り合ったルースなどから何度も食事や遠出に呼び出してもらい、神学校からは到着早々お小遣いや、台北のSuicaまで頂戴し、豪華なアパートをあてがってもらい、週末以外は昼食、夕食も神学校の食堂でただで戴けて、お礼のいい様もない。いろいろな機会に差し入れがあり、台湾製のどら焼きの袋がアパートの扉の外の把手に下がっているのに気付いたようなことも一再ならずあった。

ある日、授業が終わった時、韓国人学生が、ラップトップと厚手の本が5/6冊入った私の重いリュックサックを部屋まで持って行ってあげましょう、と申し出てくれ、4階のアパートまで来てくれた。半時間ぐらいしたら、ドアにノックの音がしたので、開けてみたら、もう一人の女学生が、車輪付きのバッグを持って来てくれた。「今日の授業で、聖書を読むときは感情移入が大事だ、と教わりましたから、その実践です」と書いたカードが中に入っていた。翌日からはそれ押して教室に出るときは、なにか紙切れを一枚運んでいるだけみたいだった。別な日に、図書館で階段を上る途中でつまづいて倒れ、片方の腕を擦りむいたのを同じ部屋で勉強していた先の女学生が気付き、しばらくしてから彼女がアパートに現れたのでなんだろうと思ったら、消毒液の入った瓶と絆創膏を手にしており、そのうえ、このサンダルの方が安全かもしれません、と新しいサンダルまで買って来てくれていた。

最後の授業の時、学生の一人がキーボードで伴奏してくれて「ヒンネマトーブ」を合唱した。詩篇133:1「見よ、兄弟が一緒に座っていられるのは何と良く、楽しいことであろう」を歌詞とするイスラエルの民謡であるが、歌いながら、たまらなくなって、一人一人学生のところを回って固く握手した。

オランダに戻ってから、何人かの学生から個別にメールをもらい、「先生たちがいらっしゃらなくなって寂しいですー」と書いてあるのだけど、ただの決まり文句ではない、と思えて仕方がない。

2015.12.22日記

村岡崇光

中国へ再び

中国へ再び
私は、ライデン大学を2003年に定年退職してから、毎年、最低五週間アジアの大学や神学校で専門のヘブライ語、ギリシャ語、聖書などを無料で講義させてもらっています。大東亜戦争に日本と戦った米国、英国(とその連邦国、オーストラリア、ニュージランドなど)、オランダなどの兵士や一般市民に対する非道な行為のみならず、19世紀末からつぎつぎに日本の植民地となった台湾、韓国、さらに戦争中に日本が占領したアジア太平洋地域の国に対しては膨大な被害、苦痛を負わせたにかかわらず、そのきちんとした整理は未だにできていません。その一つの例が、先日投稿した、所謂「慰安婦」問題です。朝鮮半島が最大の犠牲者を出したことは事実ですが、中国を含むその他のアジアの諸国にも多数の犠牲者が出ました。戦争中、インドネシア(当時はオランダの植民地)を占領した日本軍は、原住民の女性たちの中からも何千人という犠牲を出しました。また、そこに住んでいたオランダ国籍の女性にも百人を超える犠牲者を出しました。オランダ人犠牲者については、2013年に新教出版社から私がオランダ語から和訳した「折られた花:日本軍『慰安婦』とされたオランダ人女性たちの声」に出ています。

2014年に日本聖書協会と教文館が私のアジア訪問の記録を「私のヴィアドロローサ:大東亜戦争の爪痕をアジアに訪ねて」と題して出版してもらいましたが、本書の出版後、2014年には台湾に2度目の訪問に出かけ、昨年は韓国とインドネシアを同様に再訪しました。その記録は日本語では出版されていませんので、ここにご参考までに添付します。また、今年4月から5月にかけて中国を再訪しましたので、その報告も添付します。
今年のもの以外のものは、これも英国のAuthorHouse UKという出版社から英語で出版されました。
  なお、「ヴィアドロローサ」とは、イエスキリストが不当な裁判によって十字架によるはりつけを宣告されたのち、法廷から刑場のカルバリの丘まで、ご自分がかけられることになっている十字架を無理矢理に背負わされて歩かされたその通路のことを指し、「悲しみの道」という意味のラテン語であることを蛇足ながら付け足します。

付記:長くなりますので、2014,2015年のものは別の便で投稿します。

2度目の中国

私は、妻の桂子と共に、中国を再度訪問する恩典に浴した。10年前に、香港中文大学で教えさせてもらった時に私のホストを務めてくださった李昌(リーアーチー)教授が退職後、北京から南に400キロほどのところにある済南(ジナン)市の山東大学で昨年から一学期だけ教える仕事を始められ、同大学文学部のユダヤ教•比較宗教学研究所で英語で聖書ヘブライ語の初級を6週間教えてもらいたい、また、同教授に古典シリア語の手ほどきをお願いしたい、というのであった。
4月14日に済南入りし、最近チューリッヒ大学で旧約学で博士号を取得した若手の中国人学徒の姜振(ジャンジェンシュアイ)博士からからバトンタッチされて、週3日、一回三時間ずつ12人の学生に、アメリカ人の書いた英語の教科書を使って教えることとなった。学生の能力にもかなりのばらつきがあり、学部の学生、修士課程に籍を置く者、博士論文に取り組んでいる者までいた。全員とても熱意に燃えていたが、ヘブライ語はかなり手強そうであることは程なくはっきりしてきた。さらにまた、英会話に手こずっている学生もいた。毎回出席したジェンシュアイも、学生たちもみんた礼儀正しく、接しやすく、聴講生の妻も私も何度となく日常的なことで手助けをしてもらった。会話の中国語がちんぷんかんぷんな私たち夫婦には大助かりだった。ある日のこと、学生の一人が構内の床屋までついて行ってくれたが、通訳の彼がそばにいてくれなかったら、暑い済南の太陽のもと、床屋を出るとき何か頭に掛けるものが欲しいと思ったかもしれない。別な学生は、私たちが南京へ出発する日、朝早く大学の正門のところで待っていてくれて、私たちが間違ったタクシーに乗らないように、あるいは雲助にひっからないように心配りしてくれた。
6週間の滞在中、アーチー以外にも、8年前に来たときに結ばれた友情の絆を確認する機会に恵まれたのは幸いであった。私の授業の教室のあった建物は27階建てで「知新楼」の名が付いていたので、学生たちに「温故知新」という表現のあることに触れた。8年前に上海の華東師範大学でヘブライ語を教えさせてもらったときホスト役を務められた張纓(ジャンイン)さんが、私たちに会うためにわざわざ上海から出て来てくださった。
ある週末は、私たちが済南から出かける番となり、8年前と同じく今も南京大学でヘブライ語を教えているジェレマイアに会いに出かけた。彼が教えている研究所の寛大な計らいで、中国人が当然のこととして誇りにしている高速列車で経費一切向こう持ちで「なぜ聖書を原語で読むのか?」という題で講演をするために、南京へ2泊3日の旅に出かけた。南京駅に出迎えてくれたジェレマイアが、出会い頭に、「歩行に問題はありませんか?」と尋ねた。8年前に南京を訪問したときとは違って()、今回は、前日に済南で買ったばかりの靴は私の足にぴったりだ、と答えると、「でもー」と言ってラップトップと本数冊入った結構重い私の鞄を持ってくれた。
今回の訪中で、済南と南京以外でも、何人かの新しい知人が出来た。アーチーの紹介で、北京の中国人民大学の李丙权先生の招待で、南京での講演とほぼ同じ内容の話をすることになり、オランダへ出発する前々日に講演が行われ、50名を超える出席者で好評であった。また、そのとき、通訳をしてくださった、ギリシャ、ラテン語の他にヘブライ語も教えておられるオーストリア人でレーブ(中国名は雷立柏)先生とはその後も交流が続いている。
中国人学生や学者たちとのこういった交流はいまなお緊張している日中関係を双方が意識した上で行われ、色々な席上でこのことが話題となり、意見の交換が行われた。
済南に着いてから、8年前に読んだ本多勝一の「中国の旅」を読み直した。田中角栄が北京で日中共同声明に調印した1972年発行のこの名著は、その前年、著者が中国各地を一月余り行脚し、15年戦争の犠牲者たちに会って、その証言を聞いてまとめたものであった。前回読んだときは見落としたのであるが、済南からだけでも8万人を超える労働者が強制的に、または騙されて北の撫順の炭鉱に送り込まれたのであった。1937年の上海攻略のときの日本軍による蛮行を体験した虹橋の金月妹は彼女の家族20名のうち17人もが虐殺されたことを本田に語った。8年前にこの箇所を読んだときは、虹橋は上海郊外の寒村に過ぎなかったが、今回は福岡から上海経由で北京に向かうとき、北京行きの便に乗り換えた飛行場が虹橋にあり、80年近い前の歴史が胸に迫ってきた。このことを上海の張纓さんにメールしたところ、「先生はもうたくさんなさってくださったのですから、過去の歴史の重荷にこれ以上煩わされないようにしてください」という返事が戻ってきた。でも、「どうやってこの辛い過去の記憶を投げ出すことができるんでしょう? 何のためにここへやってきたんでしょう?」としか私には答えられなかった。
南京の二日目、8年前同様ジェレマイアに伴われて南京大虐殺紀念館を訪ねた。後日、そのときの印象をまとめてもらいたいとの依頼を受けたので、以下にその和訳を添付したい。()

5月14日、私は家内と一緒に南京大虐殺紀念館を訪ねた。これで2度目であるが、最初の訪問は8年前で、今回同様、南京大学ユダヤ学研究所のジェレマイア(孟振华教授)に連れて行ってもらった。私たちが最初に知り合ったのは10年前、私が香港中文大学で旧約聖書を教えさせてもらったときだった。過去8年の間に紀念館は相当に増築されていた。8年前と同じく、そこに展示されているものに日本人の私は圧倒された。我々の前の世代の同胞が、ここで、また中国各地でどうしてこんなひどいことができたのだろうか? ある部屋の一方の壁全面が犠牲者の名前で埋め尽くされていた。ゆうに3000を超える人名であったが、忍耐強く、丁寧に案内してくださった紀念館の職員の張博士にも漏らした通り、これはもちろん氷山の一角に過ぎない。別な部屋には揚子江の岸に放り出された100を超える死体の山を描いた壁画があった。犠牲者の中に一人の女性の裸体の姿があり、強姦されたのちに、殺害されたのであろうが、その傍らに幼児が手をかざして泣いている姿は見るに忍びなかった。
南京は私には特別の意味を持っている。亡父村岡良江は敗戦時、航空参謀陸軍中佐としてここに駐在していた。父は南京虐殺の翌年(1938年)に中国の別の所から転勤してきたようである。ある展示室の壁に、南京をいろんな方向から同時に攻略した日本軍の部隊名とその指揮官たちの名前が出ていたが、そのなかに父の名が無いのを見て私はホッと溜め息をついた。父は、戦後南京で行われた軍事裁判にも、東京での極東軍事法廷にも証人として召喚されなかった。
今回も、紀念館が老弱男女の訪問客で溢れているのを見て力づけられた。心なしか、ときとして冷たい視線を感じることもあった。中国人らしい、私と同年代かもっと年配の人とすれちがうと、直視することはできず、自然に目を落とした。
多くの展示に、戦時中の日本の新聞記事の切り抜き、日本軍の公文書、従軍兵士の私的な手紙や日記などの一部が添えてあって、これが単なる作り話で無いことを証拠立ているのは大事であった。
一通り見終えたところで館長の張博士の部屋で昼食をご馳走になった。日本人らしき入館者を見かけなかったので、日本人の訪問者もあるかどうか尋ねてみたところ、入り口で旅券の提示を求めるわけでもないので、わからない、とのことだった。前日、ジェレマイアと南京大学の現代中国史が専門の(ジャン)先生と夕食をご馳走になったとき、最近日本の首相三人が紀念館に来た、と言われたので、現役の首相でしたか、と問うたところ、「元」首相だった、ということだったので、安倍首相が今来たら画期的で、いまだに「膠着」状態の中日関係は劇的に好転するでしょうが、それでは物足りないですね、と答えたことを皆さんに申し上げた。
紀念館に無料で入れてもらい、案内までつけてくださったことに対するお礼のつもりで、二月前に出版された「私のヴィアドロローサ」の英語版を差し上げた。2003年にライデン大学を定年退職して以来、前世紀の前半に日本帝国主義の犠牲となったアジア諸国に毎年無料で専門の講義に出かけて来たことの記録であるが、これは2014年の暮れに出版された日本語版に多少加筆したものであると漏らしたところ、そちらも一冊いただけないだろうか、とのことで、たまたま持ち合わせていたものを差し上げた。これで、肩の荷だけでなく、内心の荷が些か軽くなったような気がした。祖国の負の歴史について語ったり、書いたりして、私の資産がただの一元たりとも増えることには耐えられないので、南京大学と、同大学での講演をヴィデオに録音した団体から頂いた謝礼を紀念館に寄付したいと申し出たところ、館長の張さんは、南京大虐殺()の生存者(中国語では「幸存者」)を経済的に支援する基金に加えましょう、と言って受け取ってくださった。
昼食が終わって、今度は、これも館員の張亮さんの案内で、最近公開された所謂「慰安婦」問題をもっぱら扱った建物の方に移動した。かつて慰安所があったところらしく、紀念館に隣接していた。
最初に入った部屋には高齢の70名の犠牲者の写真が、名前つきで壁に貼りつてあった。日本軍によって苦しめられたとき、この人たちはみんな若かったはずである。もう老境に入ってから、何十年と抱えて苦しんできた過去を公にすることに踏み切られたのであろう。それがために、身内との関係にヒビが入ったり、世間から冷たくあしらわれるようなこともあったに違い無い。しかも、日本軍の性奴隷にされたこのような犠牲者は、中国人に限っても、何万人といたはずであるから、大多数の女性たちは口を閉ざし、深い傷を抱えたまま鬼籍に入られたのであろう。
高名な日本人ジャーナリスト本田勝一の著書の中に、日本兵が中国のどこかの村に近づきつつある、という情報が入ると、村人たちは「獣」に警戒するように即刻通知を受けた、とあるが、本田は動物は強姦はしない、という動物学者が書いているのを引用している。牡牛は、発情していない、あるいはその気の無い雌牛に無理やり乗りかかりはしない、というのである。これを読んだとき、私は金槌で頭をぶん殴られたような気がした。強姦、輪姦をほしいままにした日本兵は犠牲者の中国人女性たちの人間としての尊厳を踏みにじっていたわけであるが、天皇陛下を総帥としていただいて中国に派兵された日本兵たちはそういう行動によって人間としての自らの尊厳を足蹴にしていたことに気づかなかったのは悲劇というほかない。日本兵は獣以下であったことになる。案内役の張さんにこの話をしてから次に入った部屋の壁には「獣群」と題する展示があった。
別な部屋の壁には老齢の犠牲者の写真のわきに彼女の若いときの写真が貼ってあったが、目を見張らせるような絶世の美人で、夜毎に日本兵の性欲の餌食にされることが彼女にとってどれほど辛いことだったか、と思わされた。
展示が中国人犠牲者に限定されていないのは評価に値する、と思った。朝鮮人、フィリッピン人のみならず、日本人犠牲者のことまで出ていた。1942年に公演された中国のオペラ「秋子」の背景になっているこの悲劇の女性のことは初めて知った。結婚直後に慰安婦として強制的に中国へ連れてこられたのであるが、召集令状を突きつけられて夫も中国戦線にわたり、ある日、駐屯地の慰安所で、足を踏み入れた部屋で自分の愛妻と鉢合わせになった、という実話を基にした作品である。性奴隷制度の問題は民族や国境の壁を超えるものである。この犠牲者たちの人間としての、女性としての根源的な尊厳が侵されたのである。ある部屋のガラスの展示ケースの中に各国語でこの問題を扱った本が並べてあったが、当時はまだオランダの植民地であったインドネシアで犠牲となったオランダ人女性たちのことを扱った2008年出版の私の共著が入っているのを見て懐かしくなった。これも同じように日本軍に性を強要された8人のオランダ人女性の声を記録したものを私がオランダ語から和訳して、新教出版社から「折られた花」の題で3年前に出版されたものを一冊寄贈した。
この展示も終わり近くになったとき、ある犠牲者の石像の前に立った。「とどまるところを知らない涙」と銘打ってあり、「お願いです、この人の涙を拭き取ってください」と書いてあった。どくどくと彼女の頬を流れ落ちる涙は人工的な装置でできているものとわかってはいても、そのまま立ち去ることはできず、そばにあった籠から手ぬぐいを一本取り出して、数分間そーっと頬を拭いてあげた。
紀念館が発行した絵葉書を閉じたものを記念にいただいたが、その表紙に「和平の舟」とあり、素晴らしい、と思ったが、もう少し考えてみて、紀念館から出帆する舟の帆には「正義及和平之舟」と刻んであるべきではないか、と思えてならなかった。でなければ、この舟は途中で難破して、目的地に辿り着かないのではないか。紀念館の至るところに展示されているようなとてつもないスケールの日本軍による不正、蛮行はしかるべく処理されなければならない。正義の要求することにはきちんと対処すべきであり、何が何でもともかく平和というのは本物の平和ではないだろう。

済南でのある週末ジェンシュアイ夫妻が町外れにある、72の泉が湧きでる有名な趵突泉公園に連れ出してくださったが、私たち夫婦にとって特に目を惹いたのは済南惨案紀念堂であった。15年に及んだ日中戦争の引き金となった1931年の満州事変より前の1928年5月3日、済南に居た日本人12名が蒋介石軍によって殺害されたことに対する報復として日本軍が少なくとも3,000人の済南の中国人を惨殺したことにちなんだ紀念堂である。私の座右の銘である「前事不忘 後事之師」が館内の壁に刻んであった。「前事」の代わりに「往事」としたものもあったが、趣旨に変わりはない。夕方、ジェンシュアイ夫妻のために一席設けたとき、「紀念堂には親に連れられて子供がたくさん来ていましたが、あの子たちは学校でこういった歴史を教わるだけでなく、家庭でも親から話を聞くんでしょうか?」と問うたところ、「今の若い世代は、大多数が楽しい未来を目指しています」ということだった。南京で南京大学の姜先生と語らったとき、戦後世代の中国人が、彼女の研究分野の核心である現代中国史にもっと目を向けるように努力しなければならない、という点で意見の一致を見出した事を思い出した。
この点で、学生たちからの直接の反応は私に希望をもたせた。拙著「私のヴィアドロローサ」を返しに来た学生の一人は、中日の歴史についての彼の見方が少なからず変わったことを述べ、私が済南でやっていることを大変ありがく思う、と言ってくれたが、同じようなことを博士課程にいるもう一人の学生からも聞いた。6週間の授業では、ヘブライ語以外のことでも、貴重なことをたくさん学びました、と言った学生も何人かあった。
ジェンシュアイはかなり分厚い教科書を全部済ませる事ができたのに驚き、またご満悦のようだった。私の講義が終わりに近づいたとき、研究所所長の傅有徳(フユデ)先生がわざわざ教室に来られ、無給の講義を謝し、また学生たちから好意的な反応を得ていることを伝えてくださった。
いつものとおり、歌詞を詩篇133:1からとったイスラエル民謡「ヒンネマトーヴ」をヘブライ語で全員で合唱して6週間の授業を締めくくった。そのあと、私たち夫婦は、豪華な中華料理に招待された。私の講義に対するアーチーからの心のこもった感謝の言葉を拝聴し、いくつか結構なプレゼントまでいただいたところで、私が起って、山東大学が私の再度の訪中の動機に暖かい理解を示してくれ、6週間の長期にわたって身に余る宿まで供してもらったこと、またユダヤ教•比較宗教学研究所の職員、アーチー、ジェンシュアイ夫妻、学生たちにいろいろな形で暖かい友情を示してもらった事に深甚よりの謝意を表した。また、過去6週間の間に私が言った事、した事の中にはかれらの辛い過去を思い出せるようなものがあったかもしれないけれど、アーチーの挨拶の中にあったように、「忘却は島流しに終わり、記憶は救済を齎す」ことを付言した。これは、昨年他界した元西ドイツ大統領のワイツゼッカーがナチス敗北40年にあたって西ドイツの国会で行ったあまりにも有名な、「荒野の40年」という演説にも引用されている、ユダヤ先哲の格言である。過去を振り返る事なくして、前向きに未来を云々する事はできないし、過去なくして現在も未来もないのである。日本の敗戦以前に日本が中国で働いた不正、犯罪行為は当時の日本帝国主義の責任であり、帝国主義の復活は絶対に許せないが、中国人民と日本国民とは友好関係を維持しなければならない、という中国政府の公式見解にはなんとなくしっくりしないものを感じることも伝えた。故周恩来の「恨罪 不恨人」(罪は憎むが、人は憎まず)という立場にはまったく同感であるが、例えば、中国人女性を強姦、殺害した日本兵が「学校の先生に洗脳された」と言って逃げられるとは思えない。詩篇106:6に「私たちは先祖たちと共に罪を犯しました」とある。この詩はそこに列挙されている罪が犯されてから何世紀も後に詠まれたことは疑いを容れないから、詩人の同時代の同胞を昔の先祖たちの共犯者にしていることはあり得ない。詩人は更に言葉を続けて、「彼等は自分たちが犯した罪、それにも拘らず神様が優しく許してくださったことをすぐ忘れてしまった」(13、21節)と言う。詩人は、自分が属する民族との一体感を表明し、先祖の犯した罪を肯んずることはできないけれども、彼等との連帯感を維持したい、全員が過去の歴史の暗いページからも学び、前車の轍を踏むことのないように、という熱い願いを表現しているのではなかろうか。

学生たちがヘブライ語を容易に音読できるようにという趣旨で、旧約聖書の中から15節ほど取り出して、ヘブライ語で暗記し、教室で、原文を見ずに音読してもらうことにした。済南に着いて間もなく、街へ食事に出ようとしたとき、門のところに「出入平安」と書いてあるのが目に留まり、詩篇121:8を暗唱聖句の一つに加えることにした。「あなたが出るときも、帰ってくるときも主がこれから永遠にあなたを見守っていてくださいますように」とある。中国の大都会は一旦通りへ出ると、歩行者だけでなく、自転車、バイク、モーター付き荷車に乗っている者にとっても危険極まりないのである。この聖句を学生たちに音読してもらったところで、数ヶ月前にオランダの自宅で桂子が体験した事を語った。ある日の夕方、二階に上がって行き、踊り場にたどり着いたところでフラフラっとして後ろ向きに16段を真っ逆さまに転げ落ちた。幸いに骨一本折れず、3ヶ月もしないのに、こうして中国まで来れた。詩篇の箇所は「あなたが昇るときも、降りるときも」と書き換えても良いのではないか、と付言した。済南に来る前に私たちは鹿児島の郷里で1週間を過ごした。もしも、福岡空港からの出発を10時間後に予定していたら、熊本地震に巻き込まれて、旅程の大幅な変更を迫られるのみか、北京までの二人分の片道切符を買う羽目になったであろう。オランダからの途中、北京で乗り換えるのにターミナルが違っていたおかげで、福岡行きに乗り損ない、想定外の宿代、福岡までの片道切符と、費用はやたら上乗りされることになったのであるが、不寝番の主は私たちを哀れんでくださり、7週間の海外滞在中、道で転んだこともなければ、自転車にぶち当たられた事もなく、階段を転げ落ちたこともなかった。
帰宅して電子版の「東京新聞」のサイトを開いたところ、すさまじい記事が目に飛び込んできた。「三菱マテリアル  強制連行3000人超と和解  中国側に自主的謝罪」というのが記事の題であった。三菱は昨夏から戦時中の強制労働の犠牲者たちと交渉を続けていたのだが、犠牲者たちの人権侵害の事実を率直かつ誠実に認め、痛切なる反省の意を表明し、深甚なる謝罪の意を表し、被害者一人当たり10万元を支払い、慰霊塔建設のために一億円を、今なお行方不明の被害者の調査のために2億円を拠出することで合意に達したのである。済南で6週間過ごした者として、日本円で一人170万円の賠償金は決して小銭ではないことがわかる。すでに2007年に一部の被害者は補償を要求したのであるが、最高裁は1972年締結の日中共同声明を盾にとってその要求を却下した。これが爾後の日本政府の姿勢として現安倍内閣もそれを受け継いでいる。したがって、今回の合意は、三菱マテリアルが、独自に、自主的に、日本の司法の介入もなしに達成されたものであることが極めて重要である。被害対象者は3700人余りであるが、これは太平洋戦争中日本が連行した中国人強制労働者総数約3万9000人の一割にも満たない。今後、他の日本企業も相当なプレッシャーを感じることであろう。彼等も、三菱マテリアルに範を採ることを切望してやまない。強制労働を課せられたのは中国人に限らない。戦争捕虜ですらその犠牲となっている。それにしても、同じような行動を何十年も前に採った同盟国ドイツに比べてなんとも遅々たる動きであった。Better than never, 遅くともせぬには勝る、と思って自らを慰めるしかないのだろうか。いずれにしても、これは近年稀なる朗報で、深甚よりの賛意を表せざるを得ない。

2016年6月10日
オランダ、ウーフストヘースト

   村岡崇光

2016年10月3日月曜日

韓国の慰安婦に対する謝罪

昨年の暮れ、日韓の間でかつての所謂「慰安婦」をめぐる合意が成立しましたが、その直後に以下のような意見を何人かの人たちに伝えました。最近、安倍首相からの謝罪の手紙があっても良いのではないか、と韓国側が言ったのに対して、安倍首相並びに岸田外務大臣は、それは合意には入っていないとして拒絶しました。だいたい、金を払ってから謝罪するというのが順序を取り違えており、心から謝罪して、それを受け入れてもらったら、何らかの金銭的な補償を受け取ってもらえるだろうか、とお願いするのが筋ではないでしょうか。

慰安婦問題に関する日韓合意の問題性と今後の方向

日韓両政府は先週月曜日、ソウルに於いて慰安婦問題の解決について最終的、不可逆的合意に達したことが公表されました。両国の現政権はこの合意に満足であることが報道されています。

しかし、両国に於ける反応は一様ではありません。僭越ながら、この合意は本当の解決からはほど遠い、と私に思われる理由を指摘させていただきます。

(1) 誠意の問題
被害者当人の心を汲んでいません。昨年から韓国側と接触した日本の政権、外務省の職員の誰一人として韓国人犠牲者あるいは彼女達を支援する韓国の代表と会っていません。両国の外相が会った日に安倍首相が朴大統領に合意の趣旨を電話で伝える、というような姿勢は被害者の心の痛みを真摯に感じている者には出来ないことです。
また、韓国外務省の職員が、合意発表後に、複数の被害者達に直接会った時には、冷たくあしらわれ、また怒りをぶつけられたそうです。
これでは、日韓外相の共同声明に言われているような、日本側が拠出する10億円で「心の傷の癒やしのための事業を行う」というようなことは笑止千万です。
共同声明には、安倍首相は「心からおわびと反省の気持ちを表明する」とありますが、首相は昨年11月にソウルを訪問、朴大統領と慰安婦問題についても協議したとき、犠牲者と直接会って、なぜそういう気持ちを表明しなかったのでしょうか?

また、安倍首相は一方に於いて被害者が「心身にわたり癒しがたい傷」を負われた、と言いながら、他方では10億円の拠金で「全てのもと慰安婦の方々の心の傷を癒す措置を講じる」と言うのは、単に語句表現の錯誤以上のものが根底にある、としなければなりません。

北朝鮮外務省は、この合意は「政治的駆け引きの産物」である、と糾弾しています。日韓関係が慰安婦問題を巡って低迷を続けたのでは、米合衆国の東北アジア政策の推進に重大な支障を来す、という日韓両国の懸念が今回の合意達成の引き金になっている、というのは多数の識者が既に指摘している通りです。これは、問題の本質を根本的に見誤っています。北朝鮮は、犠牲者は朝鮮半島の北にもいる、と指摘しています。今回の合意が、人間の尊厳の破壊という問題の根源に迫るものであって、単に日韓米の間の政治的難題の処理以上のものであるならば、韓国以外にも何万人という犠牲者がいることを真摯に受け止めて、これと対処しなければなりません。今回の合意に鑑みて台湾の馬大統領は既に声を上げています。オランダからも発言がありました。オランダ、オーストラリアや中国だけでなく、日本に経済的に負ぶさっているがために声を潜めているアジアの国に対しても、今度こそは加害者の日本の方から問題処理に向けてイニシアティブをとることによって、日本の誠意は伝わり、われわれは名誉をいくばくか挽回できるでしょう。

共同声明文には「心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する」とありますが、これも声明文が心を込めて起草されたものでない証拠です。「全て」とは誰を指しているのでしょうか? 本当にお詫びをするときは、被害者の概数ぐらいは知っていなければなりません。しかも、1991年に韓国人の金学順(キムハクスン)さんが初めて慰安婦としての自分の辛い過去を明らかにされてから、同じように名乗り出られた200数名は実際に日本軍によって性奴隷として酷使された韓国人女性のほんの一部であることは周知の事実です。大多数は、名も知れず、いろいろな理由から自分の過去を隠して、いまなお密かに苦しんでおられるか、あるいはそのまま他界されたのです。そういった何万人もの犠牲者を「全ての方々」などと十把ひとからげに扱かえるのでしょうか? 自分の過去を明かして、なお現存しておられる韓国人犠牲者は40名そこそこですが、日本の醵金によって事業が始まったからとて何百人もの犠牲者が名乗り出られるとは考えられません。

(2) 責任の問題
声明文には、慰安婦達は敗戦前の日本軍の関与による犠牲者であるから、「日本政府は責任を痛感している」とあります。日本政府とは現内閣のことでしょうか? 現日本政府が戦前の日本の行動に対する責任を表明するには、現政府の母体、また現政府を政権の座につかしめた現在の日本国民の代表からなる国会が責任を表明する必要があります。

安倍首相は、第一次安倍内閣のときも、声明文の趣旨とは裏腹な態度を公の場で表明し、現政権になってからも、犠牲者たちに対して痛恨の意を表明したことはありません。昨年8月14日の内閣の名においての首相談話でも、「歴代内閣の立場は、揺るぎないものであります」とあるのみで、首相自身によ個人的な気持ちの表現は何一つありません。

こういう首相は、政府としての責任を云々すると同時に、一個人として、こういう暗い過去の歴史を背負った一日本人としてこの問題に何年も眼をつぶって来たこと、耳を貸さなかったことを悔い、謝罪すべきです。

慰安婦制度を立案し、実施したかつての日本軍の指導者たち、またそこで慰安婦達を痛めつけた何万という日本兵達、また、戦後、オランダのBC級軍事裁判でこの問題で有罪判決を受けた被告が祀られている靖国神社に参拝したことを反省し、自分の閣僚の中に、自民党の中に同様のことをし続ける者にはその非を指摘し、最近安倍夫人が参拝されたことも恥べきでしょう。それをこれまで怠って来たことを安倍首相は反省、謝罪すべきです。日本の政治家達や右翼による事実の無視、否認、歪曲、彼女らは所詮金目当ての娼婦だったというような暴言、あるいは問題に対する無関心が犠牲者たちの生傷に塩を擦り込むようなことになったことを彼らは率直に受け止めるべきです。でなかったら、8月14日の安倍首相談話のなかの「そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい」という文言は中身の空虚な美辞麗句に堕します。

慰安所のあった無数の部隊の指揮官の中にはいまなお存命中の人もあるでしょう。合意発表からそろそろ一週間、一人として遺憾の意を表した旧軍人があったということは報道されていません。そういう人が一人でもあったら、韓国の犠牲者たちの心にどんなにか響いたことでしょう。

日本人は満州事変以来の歴史に学ぶべし、と発言された平成天皇からなにかお言葉があっても良かったのではないでしょうか。私が、2003年にソウルでかつて慰安婦として痛めつけられたという老婦人に個人的にお会いした時、彼女は、「私はお金を要求しているのではない。天皇にここに来て、謝罪してもらいたいのです」と声を大にして叫ばれました。敗戦前の日本兵はみな[皇軍」の一員、生くるも死ぬるも、これ全て陛下のためだったんですから、このハルモニの叫びは正当な訴えでした。

(3)法的責任
ごくごく一握りの例外は別として、犠牲者たちはみんな強制売春の苦しみを味わされ、日本の敗戦を生きながらえた人たちも、その後の70年間、ありとあらゆる苦渋を味わい、今も味わい続けています。狭義の強制、広義の強制というような区別は犠牲者たちにとっては一切無意味な、法科の学生の演習問題に過ぎません。狭義の強制があったことは一切疑問の余地はありません。事実です。甘い話に惹かれて、前線に到着してみたら騙されていたことが分かり、帰宅、帰国させてくれと要求しても拒否されたら、強制売春以外の何物でもありません。そして、日本軍によるこういう行為は、「醜業ヲ行ワシムル為ノ婦女子売買禁止ニ関スル国際条約」(日本は1925年に加入)、並びに国際労働機関の強制労働に関する条約(日本は1932年に批准)に明らかに抵触する不法行為であり、刑事犯罪として処罰さるべきものです。多くの女性が絶望のあまり、自ら命を絶ちました。「法殺」であり、事実上の殺人です。人間としての、女性としての尊厳を故意に奪い、その人格を甚だしく傷つけることは、相手を殺したことに他なりません。犠牲者は生きた屍と成り果てたのです。日本が法治国家として国際的に認められたいのであれば、こういった過去を無視したのでは、問題が最終的に解決した、と主張することはできません。
日本は従前に同じく、今回の交渉過程でも、韓国人売春婦問題は1965年に両国によって調印された日韓基本条約に付随する日韓請求権協定によって解決済みであるとの姿勢を崩しませんでした。しかし、そこでは強制売春、強制連行のことは一再審議されなかったことが、最近両国によって公表された関連文書から明らかです。

(4) 今後
共同声明は、この合意は不可逆的である、と明言して、双方ともに本件を今後持ち出すことに対して釘を刺しています。
しかし、問題の本当の解決は、特に加害者側が、このような不正行為、戦争犯罪が今後二度と繰り返されてはならない、という決意を表明し、その決意が実現される為の具体的な施策を採る必要があります。平成7年8月15日に発表された村山総理(当時)の談話には「過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し」云々とあります。1993年8月4日発表の河野内閣官房長官(当時)による、慰安婦問題に限定した談話には、「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」と言われています。ところが、それと同日に、本件に関する日本外務省の日英両語のサイトに「慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により斡旋業者らがこれに当たることが多かった。その場合も戦争の拡大とともにその人員の確保の必要性がたかまり、そのような状況の下で、業者らが或いは甘言を弄し、或いは畏怖させる等の形で本人たちの意向に反して集めるケースも数多く、更に、官憲等が直接これに加担する等のケースもみられた」とあり、これは慰安婦制度を正当化しようとした試み、二枚舌です。私は2011年、2012年に当時の日本の外務大臣にこの文言の削除を考慮してもらいたい、とメールでなく、手紙を出しましたが、梨の礫で、このサイトは今日(2016.01.03)もそのまま残っています。日本の学校の歴史教科書でも慰安婦問題については今日では殆ど記述がありません。韓国政府は、このような日本の現状が抜本的に改善されることを要求し、日本政府もその決意を新たに表明すべきでした。その表明は今からでも遅くはありません。いったん表明したならば実行しなければなりません。
今回の交渉に臨むにあたって、日本政府は、ソウルの日本大使館の前の道路を挟んではす向かいに立っている慰安婦を模した少女像の撤去を想定していた、とも報道されました。ナチスへの蜂起犠牲者のユダヤ人たちを記念したワルシャワの碑の前に跪いて献花した元西ドイツ連邦首相ブラントに範をとって、安倍首相も11月にソウルを訪問したとき、この少女像の前にぬかずくべきでした。このような像は日本の大使館の威厳を害う、というのが日本側の主張ですが、何万という韓国人女性の威厳をいたく傷つけておきながら、彼女らの訴えに馬耳東風であり続けたことによってこそ日本の威厳は傷つけられたのです。この像を現在の場所に置き続けるかどうかはともかく、韓国の人たちにとって、自分たちが被った被害の象徴としてこのような像は必要なのです。日本に対する復讐心や、憎悪をあおるためではありません。この加害の歴史を封じようとする試みは絶対に許されるべきではありません。「不可逆的」合意はそういう歴史修正主義を容認するものであってはなりません。広島、長崎の原爆記念館に隣接して、私たちは自国による加害の歴史を保存した記念館を国費によって建設すべきです。韓国の慰安婦支援団体や海外の韓国人社会では、このような像をもっと建てよう、という案も考慮されている、と報道されています。日本が拠出する基金の一部がそのために使われたら、今なお無名のままでおられる犠牲者たち、さらに韓国人以外の犠牲者の方々の心の傷を癒すのに効果的かもしれません。

日本軍の性奴隷制度は戦争犯罪、人権蹂躙の最たるものですが、20世紀の前半に日本軍並びに日本国がその植民地、太平洋戦争の交戦国並びに占領地で犯した不法行為、破壊、殺戮、略奪行為は無数にあります。今回の日韓交渉は、わが国がこの自国の歴史に対して初めて向き合おうとしたもので、同じ姿勢は今後も持続され、植民地支配、戦争責任の処理に取り組み続けなければなりません。わたしたちはやっとその第一歩を踏み出したのです。他の国だってやったんだ、と言って開き直ることは恥の上塗りです。
日本がこの合意にどのように真剣に取り組むかを韓国だけでなく、世界が見守っていることでしょう。日本政府の誠意の具体的な表現として一つだけ挙げれば、日本最大の右翼団体といわれる日本会議で安倍首相は副会長、日本会議国会議員懇談会に安倍内閣の閣僚19人のうち13人までが名を連ねているといわれていますが、現内閣はこの団体ときっぱりと袂を分かつべきでしょう。
2016年1月3日

村岡崇光
ライデン大学名誉教授

オランダ

初めての沖縄

沖縄訪問(2016年7月)

昨年の師走、沖縄聖書神学校の喜友名校長先生からメールが届き、私が一昨年東京郊外の羽村にある聖書宣教会の聖書神学舎で行った集中講義に参加した人からその内容を聞き、ぜひ沖縄でも教えてもらえないだろうか、という要請を受けた。また、一昨年の講義に参加した人は、聖書語学に関する講義だけでなく、それに先立って日本の教会が戦争責任の問題にどのように対処すべきかについて私が語ったことにも感銘を受けた、と伝え聞いておられたようである。原典釈義の重要性とその取り組み方について教えていただきたい、ということであった。沖縄聖書神学校は1974年に開校した超教派の神学校で、隔年入学、現在は1年生が3名、3年生が4名、神学校としての独自の建物もなく、こじんまりした神学校のようであった。

また、沖縄の現代史、並びに現在の政治的状況から、土地の教会には本土の教会とは少なからず違った課題や使命があることも喜友名先生の手紙から読み取れた。

過去20年ぐらい、8年前に母が召されるまでは母に会うため、その後は一番下の妹に会うためにほとんど毎年、短期間ではあるが帰郷していて、鹿児島から一飛びの沖縄に一度は行きたい、と願っていた。しかし、先方の事情もあって、長期の滞在は不可能で、二日で合計8時間の講義をお願いしたい、ということだった。しかし、たったそれだけのために、同行する妻は自費で行くとしても、私の航空運賃、講演謝礼という負担をおかけするのが正しいものかどうかかなり迷ったが、最後には先方の熱意にほだされてご招待に応ずることにした。

フランクフルト、上海経由、実質的な飛行時間13時間半というかなりの長時間の旅程も無事終えて、七月五日の午後、那覇空港に降り立ち、神学校の財政担当という平良善郎牧師に迎えられて、宿舎に向かった。喜友名先生の教会付属の別棟に立派な宿が用意されていた。翌日から始まった講義は隣にある喜友名先生の牧会される沖縄中央教会の礼拝堂が講義室となった。現役の学生7名の他に、卒業生や教師陣など20名あまりに暖かく迎えられて、聖書原語を専門とする私の略歴と過去15年あまり、日本人クリスチャンとして日本の戦争責任の問題にどのように関わってきたかをお話しした。休憩時間の時、聴講生の一人の若い女性が自己紹介をされ、昨年夏、チェコのプラハで行われた恒例のヨーロッパ•キリスト者の集いに沖縄から参加された仲本さんと意外の再会を喜んだ。その時私が行った特別講演、「荒野の70年」のなかで私が沖縄の状況に触れなかったのはなぜだろうか、と思ったと言われた。

二日間、都合8時間の講義では、ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語から例を引きながら、聖書を原語で読むことによって、日本語だけで読んだのでは、見えてこないこと、あるいは思いつきもしなかったようなことがあることを話した。比較文法(comparative grammar)
ではなく、対照文法(contrastive grammar)の視点から話したのであった。参加者の表情から、新鮮な興味を持って聴いておられるのがわかった。帰宅してから、ヘブライ語をもっとじっくり学びたい、という熱意を掻き立てられた、とメールしてこられた方もあり、教師冥利につきるとはこのことであろう。

ほんの短期間の訪問ではあったけど、この訪問は、私がライデン大学を定年退職した2003年以来続けているアジアへの講義旅行の延長線上にあるように思える。沖縄は1972年に米国から返還されて以来、沖縄県として公式には、行政的にはまぎれもなく日本の一部であるのだが、その建前と現状との間にはかなりの開きがあることを今回訪問してみて痛切に感じた。しばしば言われるように、沖縄県は日本の国土の0.6%しかなく、これは東京都よりほんのすこし広いくらいなのに、日本全体に置かれている米軍専用の基地は74%にも達している。日本の仮想敵国から攻撃があった場合、標的は沖縄よりは日本本土であろうから、沖縄に過大な負担、犠牲を強いている、と言わなければならない。これは、昭和19年の後半、米軍との本土決戦を想定した大本営の戦略の中で、本土での米軍との対決戦備のために時間を稼ぐ持久戦と規定し、沖縄を「捨て石」とした姿勢を思わさせる。

最初の日の夕方には、喜友名先生の教会の祈祷会で短い聖書の解き明かしを依頼され、旧約のエレミヤ31:27−34から、聖書の神さまは、健忘症にかかられるようなことは決してなく、私たちが犯した罪は、たとえ赦してくださっても、記録から抹殺されるようなことはない、ということを伝えた。

最後の二日目の夕方には、私の専門の講義に参加された人たち以外にも一般信徒もかなり出席された公開講演会となり、昨年のプラハでの講演を下敷きにして、日本の教会の戦争責任の問題に踏み込んだ。また、2年前に日本聖書協会•教文館から出版された「私のヴィアドロローサ:『大東亜戦争』の爪痕をアジアに訪ねて」を紹介しながら、海外に半世紀以上永住する日本人キリスト者として日本の戦争責任の問題を私がどのように捉え、私なりにどのようにささやかな営みを続けているかを語った。

講義が終わった翌日、平良牧師のご厚意で、糸満市摩文仁(マブニ)にある広大な平和祈念公園内にある平和の礎(イシジ)に案内していただいた。敗戦50年記念事業として沖縄から平和を世界に向けて発信するために建設されたものである、という。沖縄戦が公式に終結した1945年6月23日から70年の時点で一般市民、外国人をも含めて241,336人の死者の名前が118の刻銘碑に刻まれている。平良牧師のお祖父様のお名前もあった。この膨大な犠牲者のうち、沖縄人が149,362名で、そのうち民間人が約94,000人と言われる。外地で戦死した人も含まれているとはいえ、昭和20年3月26日から3ヶ月余りの戦闘の結果としては異常な犠牲者数である。「鉄の暴風」と呼ばれた米軍による爆撃、砲撃による直接の犠牲者のみならず、餓死、病死、集団自決、日本軍による殺害などが含まれている。沖縄人の4人に1人が死亡したというそのようなとてつもない犠牲を当時の日本の指導層は押し付けたことを日本の現在の指導層、ひいては本土の日本人一般はどこまで認識しているだろうか。

世界中どこでもこの種の施設には、銃あるいは銃剣をを構えた兵士の彫像や戦車などが陳列してあるものだが、ここで訪問者が出会うのは犠牲者の名前だけである。平和の礎より10年以上前に完成した、米合衆国首都ワシントンの郊外にあるベトナム戦争の戦死者の祈念碑を思わせる。平和の礎がこれに着想を得たものかどうかは知らないが、米国のものがアメリカ人戦死者の名前だけを刻んでいるのとの違いは重要である。単に戦死者を追悼し、弔うだけでなく、国境、国籍を超えて平和を希求しようという趣旨が明らかである。

敗戦前は連合国の捕虜に対してのみならず、植民地台湾、朝鮮の人たち、さらには日本軍によって占領されたアジア、太平洋諸島の住民の人権蹂躙のみならず、日本国民の人権すら蹂躙され、人命軽視が横行した。特攻隊などはその最たるものである。兵隊はものか道具に貶められた。「身を鴻毛の軽きに置き」というようなことが金科玉条として刷り込まれた時代である。新憲法により、また国連の人権憲章をも受諾した国として、この点で根本的な変化が起こった、と思いたいのであるが、旧態依然の感を抱くことがままある。敗戦70年の昨年の夏、鹿児島、宮崎、熊本3県の県境にある私の郷里、旧吉松町を訪ねた時、以前から一度どうしても行っておきたいというところに出かけた。JRで吉松駅を出発して熊本県の人吉に向かう肥薩線の軌道は急勾配にさしかかり無数の隧道が延々と続く。昭和20年8月22日、熾烈な戦争を生き延びて、待ちわびる家族のところへと心はやる復員兵たちを屋根にまで乗せた満員の汽車が全長617.59mの最初のトンネル「山の神第2」の中ほどで停止してしまった。定員をはるかに上回って客を乗せていただけでなく、粗悪な燃料をすら十分に積んでいなかったせいであろう。蒸気機関車D51が吐き出す煙に耐えられなくなった乗客は降りて吉松方向へ向けてトンネルのなかを歩き始めたところ、列車は突然バックし始め、それに轢かれて56名が車輪の下に巻き込まれて命を落とした。この悲劇を紀念する碑が問題のトンネルの近くにある、と聞いていたので出かけたのである。線路の脇の林の中に「山の神復員軍人殉難者記念碑」は立っていた。昭和36年建立、殉難者56名埋葬と読めた。しかし、殉難者の氏名は刻まれていない。爾後、毎年命日には慰霊祭実施、ともあるのだから、殉難者の名前は知れているはずである。これでは、彼らは単なる数字、統計になってしまっているのではないか。しかも、遺族がこのことをなんとも思わないのだろうか? ナチスの強制収容所に放り込まれた人たちがひとり残らず腕に番号を焼きごてで書き込まれたのと大差ないのではないだろうか。






平良牧師には沖縄キリスト教学院大学の沖縄キリスト教平和研究所にも連れて行っていただいた。所長の大城実先生は私より少し先輩で、沖縄戦終結のわずか数日前に片方の足に被弾、今なおご不自由されているのが痛ましかった。しかし、アメリカに留学、帰国されて牧師となり、また大学で教鞭をとりながら、郷土沖縄の平和のために真剣に関わって今日に至っておられる。先生ご自身の自叙伝、お母様の証言記録、また研究所の主催する公開講演の記録など、貴重な資料をいただき、読みながら実に多くを教えられている。

沖縄戦の時に従軍看護婦として集められたひめゆり部隊のことは昔から情報としては知っていたが、今回、喜友名先生にひめゆり平和祈念資料館に連れて行っていただいた。10代後半のうら若い女学生たち222人と彼らを引率する教師18人によって編成され、最終的には計227人もの死者を出している。しかも、米軍との戦闘にもはや勝ち目はない、と結論した軍指導部は6月18日に突然に解散命令を出し、他の一般市民の場合もそうであったが、生徒たちは米軍の包囲する戦場に放り出され、227人のうちの100名までもがこの解散命令の後の犠牲者である。国策の一環として満州に送り込まれた満豪開拓団も、戦争末期には男子は残らず召集され、部落には老人と婦女子だけが残されたが、ソ連軍が8月9日に侵入して来ると、関東軍が自分たちを保護してくれるものと信じて疑わなかった開拓民には目もくれず、我先にと残り少ない列車に乗り込んで逃げ出し、何万という悲惨な犠牲者を出したことが思い出された。沖縄の人たちも「友軍」の到来を今か今か、と待っていたのにその姿はなく、つぎつぎと斃れていった。満州と違って、沖縄の場合は日本軍自体が完全に追い詰められ、実質上軍隊としては機能していなかった、としても現地の人たちにとっては我々の想像を絶する悲劇であった。ひめゆり部隊以外にも、日本軍によって駆り出された学徒部隊は幾つかあり、そこからも少なからぬ犠牲者を出し、ひめゆり部隊をも含めて総数は1998名にのぼるという。
この資料館に敗戦70年の昨年新しく加えられた最後の資料室に入った時、異常な展示が目に止まった。生徒たちを引率した先生たちの略歴、生徒たちからどのように思われていたかが記録されていた。その教師の1人で、幸いに生き延びられた仲宗根という人が、あの時のことを回想しながら言っておられることが非常に重く響いた。「あの場合は仕方なかった、といくら言い訳をしてみても、それは言い訳にはならない。日本国家全体が犯した罪が、具体的には自分を通して現れたのである」。沖縄の人たちも、ただ犠牲者であったのではない、という厳しい認識である。今回現地の人たちからお話を聞きながら、またこの資料館、平和の礎に付設してある平和祈念資料館でも、沖縄戦で現地の人たちがどんなにつらいところを通ったか、あるいは通らせられたか、という被害者の視点が強く印象付けられた。それに比べると、この仲宗根は沖縄にも加害者としての一面があるのではないのか、と言おうとしておられるのではなかろうか。
大東亜戦争には沖縄から徴集されて国外の戦場に行った人たちもいたはずであり、彼らの行動が本土出身の兵隊達と比べて格段に違っていただろうか? 沖縄にも140近くの慰安所があり、そこには朝鮮から連行されてきた女性たちもいたことが知られている。沖縄の兵士たちはそういうところには出入りしなかっただろうか? 本土に比べれば多少の程度の差はあったかもしれないけど、沖縄といえども戦時中は軍国主義一色に染まっていたのではないだろうか? 本土出身の人間、敗戦の時国民学校2年生に過ぎなかった私が戦時中の沖縄の人たちを裁くような立場には勿論ない。本土の者達がこの歴史を語る時、被害者の視点があまりにも突出し、広島、長崎、戦争末期の大都市に対する無差別爆撃に焦点が当てすぎられることに深刻な問題を感じることを今一度強調したいのである。今なお本土から差別され続けている沖縄の人たちの怒りと痛みは今回の訪問で、これまで以上に身に沁みて感じられるようになったけれども、加害者としての自覚を欠いては、本当の、恒久的な平和への貢献をどこまですることができるだろうか? その意味において、平和のの敷地内に韓国人犠牲者のための特別の碑がかなり前から建っており、ごく最近沖縄の人たちの協力で台湾人犠牲者の碑として「台湾之塔」が私たちが沖縄入りした10日ほど前に建ったことは素晴らしいことではないかと思う。

喜友名先生の奥様には糸数にある、土地の人たちがガマと呼んでいる自然の地下壕に案内していただいた。こういう洞窟は沖縄各地に散在し、沖縄戦の時には負傷兵の看護のため、また一般人の待避所として用いられた。負傷兵をここに運び込むことも大変な作業であったに違いない。私たちが入った糸数アブチガマだけがそうなのかは知る由もないが、暗い、狭いでこぼこの岩盤の通路も平坦な直線ではなかった。ひめゆり部隊の学徒達もこういうガマで看護に当たることも多かった。前述の仲本さんの叔母様もガマにいるところを米軍によって投げ込まれた爆弾で17歳の短い生涯を閉じられたという。
オランダに戻ってから糸数ガマのところをグーグルで開けたところ、「観光名所」と分類されていたので、憤慨し、平良牧師に連絡したところ、グーグルに連絡してくださり、その情報は消された。唾棄すべき商売一点張り。まさか広島の平和公園の入り口、あるいは長崎の平和記念館の玄関に「観光名所」という看板を掲げるような破廉恥なことはしないだろうから、沖縄だから平気でそういうことをする、という沖縄侮蔑意識に腸の煮え繰り返るような思いがした。

これも帰宅してから、大城先生に頂いて持ち帰った資料や、著者の宮城幹雄氏から送ってもらった英語の近著「沖縄における社会正義の神学: 悲劇のなかの希望(1945−1972)」を読みながら非常に考えさせられた。米軍統治下においても、本土復帰してからも、駐留米軍の行動に沖縄の人たちはいろいろな形で不当に痛めつけられてきた。その一つが、復帰以前の強権的な広大な土地収用であり、もう一つは米軍軍人、軍属による沖縄女性に対する凶悪な性犯罪である。たとえごく少数とはいえ、米人宣教師の中に抗議の声をあげ、その中の1人は宣教師の地位を本国の宣教団から取り上げられた人もいるというのに、肝心の沖縄の日本人教会は、カトリック、プロテスタントあるいは教派を問わず、2、3名の指導者を例外として、教会としては沈黙を守ってきて今日に至っている、というのである。「まず神の国と神の義を追求しなさい」と言って、その実現が可能になるために、その教えを受け継いで生きようとする私達を助けようとして、十字架上に死なれたイエスキリストは泣いておられるような気がしてならない。このイエスに一生を捧げ、殉教し、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」と教えたパウロも涙しているのではないだろうか。性犯罪の最悪の、最も悲惨な例は1995年に由美子ちゃんという6歳の子供が米軍シュワブ基地の兵隊によって車で拉致され、基地の施設内で繰り返し犯され、殺されて、遺体は基地のゴミ捨て場に投げ捨てられていた、という事件である。日本聖公会沖縄教区前司教の仲村實明氏は戦前、警官の父に連れられて、台湾の先住民(高砂族)の住む山奥で生活した時の体験を語っておられる。皇民化政策によって、天子様である天皇陛下を拝まない者は極刑に処された。ある日、クリスチャンだという十代の男の子が学校の庭で裸で逆さ吊りにされて、仲村氏の父親から竹刀で散々に殴られながら、「叩けー、叩けー! 俺の体にはイエス様がついてるから痛くもかゆくもない! 叩けー!」と叫ぶのを目撃した。何年か後に、成人したかつての学童から仲村氏の父宛に手紙が届き、「性根を入れられて牧師になりました。感謝しています」とあった。それを読んだ父親は「あなたの信仰に接して私はクリスチャンになりました。お会いしたいですねー」と仲村氏に漏らしていたが、果たさずして他界された。彼は更に言葉を継いで、台湾の先住民の80%がクリスチャンなのに、途中キリシタン禁制で中断はしているものの、1545年のザビエルによる布教に始まって500年以上の歴史を持つ日本のクリスチャン人口は未だに1%にも満たないことに注意を喚起しておられる。台湾全体のクリスチャン人口が5%ぐらい、というのに比べても注目に値する。韓国も35年に及ぶ日本の圧政から解放された45年以降クリスチャン人口が著しく伸び、現在は30%ぐらい、と言われている。この著しい成長の主たる原因は、植民地支配時代に日本から散々に痛めつけられた韓国人クリスチャン達がただ単に狭い意味での信仰を固守しただけでなく、朝鮮人としての主体性、伝統的な文化、民族精神を傷つけられるのに抵抗した姿勢が一般大衆の注目を引いたのである、という説明をどこかで読んだ記憶がある。

沖縄出発の前日の日曜日、平良牧師の牧会されるうるま市の安慶名(あげな)バプテスト教会の礼拝で説教を頼まれた。聖書箇所として創世記32:23−33とマルコ5:1−20から「君の名は?」と題して話した。上に56名の殉難復員軍人に関して、人名の意義に触れた。エデンの園に棲息する動物をわざわざアダムのところに連れてきて、彼がそれぞれにどういう名をつけるかを神ご自身が確認されたことからも、神は畜生ですら十把一絡げには扱われず、私たちの良き羊飼いイエスは自分の世話をされる羊一匹一匹をそれぞれの名前を呼んで小屋から出される、とある。「君の名は?」、と分かりきったような、変な質問をされたのに、ヤコブは真剣に受け止めて、「ヤコブ」と答えることによって、臨終の床に伏す父イサクから自分がいただけるはずの祝福を弟にだまし取られた時、「ヤコブという名にしおわば」とエサウが悲痛の叫びをあげたように、この名はヤコブの過去、彼の人柄、アイデンティティをぴったりと表現していたのである。ゲラサの悪霊憑きの場合も、彼の本来の名前を彼に想起させることが最も効果的な治療である、とイエスは診断されたのであった。妻の桂子も結婚して半年ぐらいは旧姓を捨てて、私の苗字を自分の新しいアイデンティティの表現として馴染むのに相当格闘していた。私たちは夫々個人として名前を持っているだけでなく、私たちが所属する団体、集団も名前を持っている。私が毎年アジアへ講義に出かける時、私は自分が日本人であるということを深く意識している。今回は、本土の人間である、というだけでなく、よりによって薩摩人である。沖縄の悲劇、植民地化は1609年の薩摩藩による琉球征伐に始まる。拙著「私のヴィアドロローサ:『大東亜戦』の爪痕をアジアに訪ねて」が出版された時、聖書協会の職員の一人が打ち明けてくださった話を説教の中で紹介した。その職員の方は、何年か前に日本のある教団から宣教師としてフィリッピンに派遣された。拙著に、2007年フィリッピンを訪問した時訪ねた村のことを書いてあるところに、戦時中日本軍の一隊がゲリラ征伐と称してやってきて、老人、妊婦、幼児まで含めて1200人余りを惨殺したのであるが、聖書協会の人はその村に派遣されてきたのである。到着して翌日、村の人たちが来て「あたなは私たちに何を教えようと思って来られましたか?」、と問うたそうである。本土の人間、薩摩人として講壇に忸怩たる気持ちで立っている、と皆さんに申し上げた。しかし、そういう過去を持つ日本人、薩摩人村岡崇光ではあるけれども、私たちを和解させてくださることのできる正義と愛の神様に仕える者として、私はアジアに、沖縄に赴くのである。

わずか一週間の駆け足旅行であったが、喜友名先生ご夫妻平良牧師など多くの沖縄の方に暖かく迎えていただいたことで、何の事故もなく、深く記憶に残る、とても有益な日々を過ごさせていただいたことを、妻の桂子と共にここに感謝申し上げたい。

村岡崇光
31.8.2016

オランダ、ウーフストヘースト

2016年10月1日土曜日

オランダ日本語聖書教会

オランダ日本語聖書教会

数年前に、オランダ中部の大学都市ライデン市の郊外ウーストヘースト(Oegstgeest)に日本人のためのキリスト教会が設立されました。

祖国を遠く離れたオランダで定期的に日本語による礼拝を月に二回、第一日曜と第3日曜に会員の一人が自宅を開放し、その居間で午後2時半から礼拝をしています。牧師はまだいませんが、会員の一人で、ライデン大学の名誉教授(ヘブライ語学専攻)が聖書から話をしています。旧約聖書と新約聖書と交互に行います。現在は旧約聖書の方は詩篇121篇から一つずつ、新約聖書の方はイエスキリストの語られた譬え話をひとつずつ取り上げています。賛美歌の斉唱、祈祷なども組み込まれています。ピアノの弾ける方が出席された時は、ピアノの伴奏があります。また、村岡氏は、その日の聖書の箇所の私訳をその場で配布し、それを基に話をします。礼拝が終わると、お茶を飲みながら、その日の村岡氏の話についての感想を述べたり、質疑応答などが行われます。

この礼拝のほかに、月に二回、これも村岡氏の自宅を開放して、女性による聖書の学び、読書会が司会持ち回りで行われ、自由な意見の交流がなされます。

いずれの会合への参加も無料です。すでに信者であるか、洗礼を受けているかどうかは問いません。

村岡宅はオランダ鉄道のライデン中央駅からバス一本で15分ぐらいです。駅までの送迎ご希望の方には車を出しています。

関心のある方は村岡あてに以下の宛名でご連絡ください。

murao1345@gmail.com

村岡崇光



2016年9月30日金曜日

Novice blogger

With kind help by our Japanese Christian neighbour, Mrs Nobuko Gordijn-Matsuda I've now created a blog page for the first time. I hope to have mutually beneficial and uplifting communication through this forum.

T. Muraoka