2016年10月3日月曜日

初めての沖縄

沖縄訪問(2016年7月)

昨年の師走、沖縄聖書神学校の喜友名校長先生からメールが届き、私が一昨年東京郊外の羽村にある聖書宣教会の聖書神学舎で行った集中講義に参加した人からその内容を聞き、ぜひ沖縄でも教えてもらえないだろうか、という要請を受けた。また、一昨年の講義に参加した人は、聖書語学に関する講義だけでなく、それに先立って日本の教会が戦争責任の問題にどのように対処すべきかについて私が語ったことにも感銘を受けた、と伝え聞いておられたようである。原典釈義の重要性とその取り組み方について教えていただきたい、ということであった。沖縄聖書神学校は1974年に開校した超教派の神学校で、隔年入学、現在は1年生が3名、3年生が4名、神学校としての独自の建物もなく、こじんまりした神学校のようであった。

また、沖縄の現代史、並びに現在の政治的状況から、土地の教会には本土の教会とは少なからず違った課題や使命があることも喜友名先生の手紙から読み取れた。

過去20年ぐらい、8年前に母が召されるまでは母に会うため、その後は一番下の妹に会うためにほとんど毎年、短期間ではあるが帰郷していて、鹿児島から一飛びの沖縄に一度は行きたい、と願っていた。しかし、先方の事情もあって、長期の滞在は不可能で、二日で合計8時間の講義をお願いしたい、ということだった。しかし、たったそれだけのために、同行する妻は自費で行くとしても、私の航空運賃、講演謝礼という負担をおかけするのが正しいものかどうかかなり迷ったが、最後には先方の熱意にほだされてご招待に応ずることにした。

フランクフルト、上海経由、実質的な飛行時間13時間半というかなりの長時間の旅程も無事終えて、七月五日の午後、那覇空港に降り立ち、神学校の財政担当という平良善郎牧師に迎えられて、宿舎に向かった。喜友名先生の教会付属の別棟に立派な宿が用意されていた。翌日から始まった講義は隣にある喜友名先生の牧会される沖縄中央教会の礼拝堂が講義室となった。現役の学生7名の他に、卒業生や教師陣など20名あまりに暖かく迎えられて、聖書原語を専門とする私の略歴と過去15年あまり、日本人クリスチャンとして日本の戦争責任の問題にどのように関わってきたかをお話しした。休憩時間の時、聴講生の一人の若い女性が自己紹介をされ、昨年夏、チェコのプラハで行われた恒例のヨーロッパ•キリスト者の集いに沖縄から参加された仲本さんと意外の再会を喜んだ。その時私が行った特別講演、「荒野の70年」のなかで私が沖縄の状況に触れなかったのはなぜだろうか、と思ったと言われた。

二日間、都合8時間の講義では、ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語から例を引きながら、聖書を原語で読むことによって、日本語だけで読んだのでは、見えてこないこと、あるいは思いつきもしなかったようなことがあることを話した。比較文法(comparative grammar)
ではなく、対照文法(contrastive grammar)の視点から話したのであった。参加者の表情から、新鮮な興味を持って聴いておられるのがわかった。帰宅してから、ヘブライ語をもっとじっくり学びたい、という熱意を掻き立てられた、とメールしてこられた方もあり、教師冥利につきるとはこのことであろう。

ほんの短期間の訪問ではあったけど、この訪問は、私がライデン大学を定年退職した2003年以来続けているアジアへの講義旅行の延長線上にあるように思える。沖縄は1972年に米国から返還されて以来、沖縄県として公式には、行政的にはまぎれもなく日本の一部であるのだが、その建前と現状との間にはかなりの開きがあることを今回訪問してみて痛切に感じた。しばしば言われるように、沖縄県は日本の国土の0.6%しかなく、これは東京都よりほんのすこし広いくらいなのに、日本全体に置かれている米軍専用の基地は74%にも達している。日本の仮想敵国から攻撃があった場合、標的は沖縄よりは日本本土であろうから、沖縄に過大な負担、犠牲を強いている、と言わなければならない。これは、昭和19年の後半、米軍との本土決戦を想定した大本営の戦略の中で、本土での米軍との対決戦備のために時間を稼ぐ持久戦と規定し、沖縄を「捨て石」とした姿勢を思わさせる。

最初の日の夕方には、喜友名先生の教会の祈祷会で短い聖書の解き明かしを依頼され、旧約のエレミヤ31:27−34から、聖書の神さまは、健忘症にかかられるようなことは決してなく、私たちが犯した罪は、たとえ赦してくださっても、記録から抹殺されるようなことはない、ということを伝えた。

最後の二日目の夕方には、私の専門の講義に参加された人たち以外にも一般信徒もかなり出席された公開講演会となり、昨年のプラハでの講演を下敷きにして、日本の教会の戦争責任の問題に踏み込んだ。また、2年前に日本聖書協会•教文館から出版された「私のヴィアドロローサ:『大東亜戦争』の爪痕をアジアに訪ねて」を紹介しながら、海外に半世紀以上永住する日本人キリスト者として日本の戦争責任の問題を私がどのように捉え、私なりにどのようにささやかな営みを続けているかを語った。

講義が終わった翌日、平良牧師のご厚意で、糸満市摩文仁(マブニ)にある広大な平和祈念公園内にある平和の礎(イシジ)に案内していただいた。敗戦50年記念事業として沖縄から平和を世界に向けて発信するために建設されたものである、という。沖縄戦が公式に終結した1945年6月23日から70年の時点で一般市民、外国人をも含めて241,336人の死者の名前が118の刻銘碑に刻まれている。平良牧師のお祖父様のお名前もあった。この膨大な犠牲者のうち、沖縄人が149,362名で、そのうち民間人が約94,000人と言われる。外地で戦死した人も含まれているとはいえ、昭和20年3月26日から3ヶ月余りの戦闘の結果としては異常な犠牲者数である。「鉄の暴風」と呼ばれた米軍による爆撃、砲撃による直接の犠牲者のみならず、餓死、病死、集団自決、日本軍による殺害などが含まれている。沖縄人の4人に1人が死亡したというそのようなとてつもない犠牲を当時の日本の指導層は押し付けたことを日本の現在の指導層、ひいては本土の日本人一般はどこまで認識しているだろうか。

世界中どこでもこの種の施設には、銃あるいは銃剣をを構えた兵士の彫像や戦車などが陳列してあるものだが、ここで訪問者が出会うのは犠牲者の名前だけである。平和の礎より10年以上前に完成した、米合衆国首都ワシントンの郊外にあるベトナム戦争の戦死者の祈念碑を思わせる。平和の礎がこれに着想を得たものかどうかは知らないが、米国のものがアメリカ人戦死者の名前だけを刻んでいるのとの違いは重要である。単に戦死者を追悼し、弔うだけでなく、国境、国籍を超えて平和を希求しようという趣旨が明らかである。

敗戦前は連合国の捕虜に対してのみならず、植民地台湾、朝鮮の人たち、さらには日本軍によって占領されたアジア、太平洋諸島の住民の人権蹂躙のみならず、日本国民の人権すら蹂躙され、人命軽視が横行した。特攻隊などはその最たるものである。兵隊はものか道具に貶められた。「身を鴻毛の軽きに置き」というようなことが金科玉条として刷り込まれた時代である。新憲法により、また国連の人権憲章をも受諾した国として、この点で根本的な変化が起こった、と思いたいのであるが、旧態依然の感を抱くことがままある。敗戦70年の昨年の夏、鹿児島、宮崎、熊本3県の県境にある私の郷里、旧吉松町を訪ねた時、以前から一度どうしても行っておきたいというところに出かけた。JRで吉松駅を出発して熊本県の人吉に向かう肥薩線の軌道は急勾配にさしかかり無数の隧道が延々と続く。昭和20年8月22日、熾烈な戦争を生き延びて、待ちわびる家族のところへと心はやる復員兵たちを屋根にまで乗せた満員の汽車が全長617.59mの最初のトンネル「山の神第2」の中ほどで停止してしまった。定員をはるかに上回って客を乗せていただけでなく、粗悪な燃料をすら十分に積んでいなかったせいであろう。蒸気機関車D51が吐き出す煙に耐えられなくなった乗客は降りて吉松方向へ向けてトンネルのなかを歩き始めたところ、列車は突然バックし始め、それに轢かれて56名が車輪の下に巻き込まれて命を落とした。この悲劇を紀念する碑が問題のトンネルの近くにある、と聞いていたので出かけたのである。線路の脇の林の中に「山の神復員軍人殉難者記念碑」は立っていた。昭和36年建立、殉難者56名埋葬と読めた。しかし、殉難者の氏名は刻まれていない。爾後、毎年命日には慰霊祭実施、ともあるのだから、殉難者の名前は知れているはずである。これでは、彼らは単なる数字、統計になってしまっているのではないか。しかも、遺族がこのことをなんとも思わないのだろうか? ナチスの強制収容所に放り込まれた人たちがひとり残らず腕に番号を焼きごてで書き込まれたのと大差ないのではないだろうか。






平良牧師には沖縄キリスト教学院大学の沖縄キリスト教平和研究所にも連れて行っていただいた。所長の大城実先生は私より少し先輩で、沖縄戦終結のわずか数日前に片方の足に被弾、今なおご不自由されているのが痛ましかった。しかし、アメリカに留学、帰国されて牧師となり、また大学で教鞭をとりながら、郷土沖縄の平和のために真剣に関わって今日に至っておられる。先生ご自身の自叙伝、お母様の証言記録、また研究所の主催する公開講演の記録など、貴重な資料をいただき、読みながら実に多くを教えられている。

沖縄戦の時に従軍看護婦として集められたひめゆり部隊のことは昔から情報としては知っていたが、今回、喜友名先生にひめゆり平和祈念資料館に連れて行っていただいた。10代後半のうら若い女学生たち222人と彼らを引率する教師18人によって編成され、最終的には計227人もの死者を出している。しかも、米軍との戦闘にもはや勝ち目はない、と結論した軍指導部は6月18日に突然に解散命令を出し、他の一般市民の場合もそうであったが、生徒たちは米軍の包囲する戦場に放り出され、227人のうちの100名までもがこの解散命令の後の犠牲者である。国策の一環として満州に送り込まれた満豪開拓団も、戦争末期には男子は残らず召集され、部落には老人と婦女子だけが残されたが、ソ連軍が8月9日に侵入して来ると、関東軍が自分たちを保護してくれるものと信じて疑わなかった開拓民には目もくれず、我先にと残り少ない列車に乗り込んで逃げ出し、何万という悲惨な犠牲者を出したことが思い出された。沖縄の人たちも「友軍」の到来を今か今か、と待っていたのにその姿はなく、つぎつぎと斃れていった。満州と違って、沖縄の場合は日本軍自体が完全に追い詰められ、実質上軍隊としては機能していなかった、としても現地の人たちにとっては我々の想像を絶する悲劇であった。ひめゆり部隊以外にも、日本軍によって駆り出された学徒部隊は幾つかあり、そこからも少なからぬ犠牲者を出し、ひめゆり部隊をも含めて総数は1998名にのぼるという。
この資料館に敗戦70年の昨年新しく加えられた最後の資料室に入った時、異常な展示が目に止まった。生徒たちを引率した先生たちの略歴、生徒たちからどのように思われていたかが記録されていた。その教師の1人で、幸いに生き延びられた仲宗根という人が、あの時のことを回想しながら言っておられることが非常に重く響いた。「あの場合は仕方なかった、といくら言い訳をしてみても、それは言い訳にはならない。日本国家全体が犯した罪が、具体的には自分を通して現れたのである」。沖縄の人たちも、ただ犠牲者であったのではない、という厳しい認識である。今回現地の人たちからお話を聞きながら、またこの資料館、平和の礎に付設してある平和祈念資料館でも、沖縄戦で現地の人たちがどんなにつらいところを通ったか、あるいは通らせられたか、という被害者の視点が強く印象付けられた。それに比べると、この仲宗根は沖縄にも加害者としての一面があるのではないのか、と言おうとしておられるのではなかろうか。
大東亜戦争には沖縄から徴集されて国外の戦場に行った人たちもいたはずであり、彼らの行動が本土出身の兵隊達と比べて格段に違っていただろうか? 沖縄にも140近くの慰安所があり、そこには朝鮮から連行されてきた女性たちもいたことが知られている。沖縄の兵士たちはそういうところには出入りしなかっただろうか? 本土に比べれば多少の程度の差はあったかもしれないけど、沖縄といえども戦時中は軍国主義一色に染まっていたのではないだろうか? 本土出身の人間、敗戦の時国民学校2年生に過ぎなかった私が戦時中の沖縄の人たちを裁くような立場には勿論ない。本土の者達がこの歴史を語る時、被害者の視点があまりにも突出し、広島、長崎、戦争末期の大都市に対する無差別爆撃に焦点が当てすぎられることに深刻な問題を感じることを今一度強調したいのである。今なお本土から差別され続けている沖縄の人たちの怒りと痛みは今回の訪問で、これまで以上に身に沁みて感じられるようになったけれども、加害者としての自覚を欠いては、本当の、恒久的な平和への貢献をどこまですることができるだろうか? その意味において、平和のの敷地内に韓国人犠牲者のための特別の碑がかなり前から建っており、ごく最近沖縄の人たちの協力で台湾人犠牲者の碑として「台湾之塔」が私たちが沖縄入りした10日ほど前に建ったことは素晴らしいことではないかと思う。

喜友名先生の奥様には糸数にある、土地の人たちがガマと呼んでいる自然の地下壕に案内していただいた。こういう洞窟は沖縄各地に散在し、沖縄戦の時には負傷兵の看護のため、また一般人の待避所として用いられた。負傷兵をここに運び込むことも大変な作業であったに違いない。私たちが入った糸数アブチガマだけがそうなのかは知る由もないが、暗い、狭いでこぼこの岩盤の通路も平坦な直線ではなかった。ひめゆり部隊の学徒達もこういうガマで看護に当たることも多かった。前述の仲本さんの叔母様もガマにいるところを米軍によって投げ込まれた爆弾で17歳の短い生涯を閉じられたという。
オランダに戻ってから糸数ガマのところをグーグルで開けたところ、「観光名所」と分類されていたので、憤慨し、平良牧師に連絡したところ、グーグルに連絡してくださり、その情報は消された。唾棄すべき商売一点張り。まさか広島の平和公園の入り口、あるいは長崎の平和記念館の玄関に「観光名所」という看板を掲げるような破廉恥なことはしないだろうから、沖縄だから平気でそういうことをする、という沖縄侮蔑意識に腸の煮え繰り返るような思いがした。

これも帰宅してから、大城先生に頂いて持ち帰った資料や、著者の宮城幹雄氏から送ってもらった英語の近著「沖縄における社会正義の神学: 悲劇のなかの希望(1945−1972)」を読みながら非常に考えさせられた。米軍統治下においても、本土復帰してからも、駐留米軍の行動に沖縄の人たちはいろいろな形で不当に痛めつけられてきた。その一つが、復帰以前の強権的な広大な土地収用であり、もう一つは米軍軍人、軍属による沖縄女性に対する凶悪な性犯罪である。たとえごく少数とはいえ、米人宣教師の中に抗議の声をあげ、その中の1人は宣教師の地位を本国の宣教団から取り上げられた人もいるというのに、肝心の沖縄の日本人教会は、カトリック、プロテスタントあるいは教派を問わず、2、3名の指導者を例外として、教会としては沈黙を守ってきて今日に至っている、というのである。「まず神の国と神の義を追求しなさい」と言って、その実現が可能になるために、その教えを受け継いで生きようとする私達を助けようとして、十字架上に死なれたイエスキリストは泣いておられるような気がしてならない。このイエスに一生を捧げ、殉教し、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」と教えたパウロも涙しているのではないだろうか。性犯罪の最悪の、最も悲惨な例は1995年に由美子ちゃんという6歳の子供が米軍シュワブ基地の兵隊によって車で拉致され、基地の施設内で繰り返し犯され、殺されて、遺体は基地のゴミ捨て場に投げ捨てられていた、という事件である。日本聖公会沖縄教区前司教の仲村實明氏は戦前、警官の父に連れられて、台湾の先住民(高砂族)の住む山奥で生活した時の体験を語っておられる。皇民化政策によって、天子様である天皇陛下を拝まない者は極刑に処された。ある日、クリスチャンだという十代の男の子が学校の庭で裸で逆さ吊りにされて、仲村氏の父親から竹刀で散々に殴られながら、「叩けー、叩けー! 俺の体にはイエス様がついてるから痛くもかゆくもない! 叩けー!」と叫ぶのを目撃した。何年か後に、成人したかつての学童から仲村氏の父宛に手紙が届き、「性根を入れられて牧師になりました。感謝しています」とあった。それを読んだ父親は「あなたの信仰に接して私はクリスチャンになりました。お会いしたいですねー」と仲村氏に漏らしていたが、果たさずして他界された。彼は更に言葉を継いで、台湾の先住民の80%がクリスチャンなのに、途中キリシタン禁制で中断はしているものの、1545年のザビエルによる布教に始まって500年以上の歴史を持つ日本のクリスチャン人口は未だに1%にも満たないことに注意を喚起しておられる。台湾全体のクリスチャン人口が5%ぐらい、というのに比べても注目に値する。韓国も35年に及ぶ日本の圧政から解放された45年以降クリスチャン人口が著しく伸び、現在は30%ぐらい、と言われている。この著しい成長の主たる原因は、植民地支配時代に日本から散々に痛めつけられた韓国人クリスチャン達がただ単に狭い意味での信仰を固守しただけでなく、朝鮮人としての主体性、伝統的な文化、民族精神を傷つけられるのに抵抗した姿勢が一般大衆の注目を引いたのである、という説明をどこかで読んだ記憶がある。

沖縄出発の前日の日曜日、平良牧師の牧会されるうるま市の安慶名(あげな)バプテスト教会の礼拝で説教を頼まれた。聖書箇所として創世記32:23−33とマルコ5:1−20から「君の名は?」と題して話した。上に56名の殉難復員軍人に関して、人名の意義に触れた。エデンの園に棲息する動物をわざわざアダムのところに連れてきて、彼がそれぞれにどういう名をつけるかを神ご自身が確認されたことからも、神は畜生ですら十把一絡げには扱われず、私たちの良き羊飼いイエスは自分の世話をされる羊一匹一匹をそれぞれの名前を呼んで小屋から出される、とある。「君の名は?」、と分かりきったような、変な質問をされたのに、ヤコブは真剣に受け止めて、「ヤコブ」と答えることによって、臨終の床に伏す父イサクから自分がいただけるはずの祝福を弟にだまし取られた時、「ヤコブという名にしおわば」とエサウが悲痛の叫びをあげたように、この名はヤコブの過去、彼の人柄、アイデンティティをぴったりと表現していたのである。ゲラサの悪霊憑きの場合も、彼の本来の名前を彼に想起させることが最も効果的な治療である、とイエスは診断されたのであった。妻の桂子も結婚して半年ぐらいは旧姓を捨てて、私の苗字を自分の新しいアイデンティティの表現として馴染むのに相当格闘していた。私たちは夫々個人として名前を持っているだけでなく、私たちが所属する団体、集団も名前を持っている。私が毎年アジアへ講義に出かける時、私は自分が日本人であるということを深く意識している。今回は、本土の人間である、というだけでなく、よりによって薩摩人である。沖縄の悲劇、植民地化は1609年の薩摩藩による琉球征伐に始まる。拙著「私のヴィアドロローサ:『大東亜戦』の爪痕をアジアに訪ねて」が出版された時、聖書協会の職員の一人が打ち明けてくださった話を説教の中で紹介した。その職員の方は、何年か前に日本のある教団から宣教師としてフィリッピンに派遣された。拙著に、2007年フィリッピンを訪問した時訪ねた村のことを書いてあるところに、戦時中日本軍の一隊がゲリラ征伐と称してやってきて、老人、妊婦、幼児まで含めて1200人余りを惨殺したのであるが、聖書協会の人はその村に派遣されてきたのである。到着して翌日、村の人たちが来て「あたなは私たちに何を教えようと思って来られましたか?」、と問うたそうである。本土の人間、薩摩人として講壇に忸怩たる気持ちで立っている、と皆さんに申し上げた。しかし、そういう過去を持つ日本人、薩摩人村岡崇光ではあるけれども、私たちを和解させてくださることのできる正義と愛の神様に仕える者として、私はアジアに、沖縄に赴くのである。

わずか一週間の駆け足旅行であったが、喜友名先生ご夫妻平良牧師など多くの沖縄の方に暖かく迎えていただいたことで、何の事故もなく、深く記憶に残る、とても有益な日々を過ごさせていただいたことを、妻の桂子と共にここに感謝申し上げたい。

村岡崇光
31.8.2016

オランダ、ウーフストヘースト

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