二度目の台湾
私たちは6年前の初夏に7週間お世話になった台北市の中華福音神学院で10月6日から12月2日までの8週間お世話になる幸いに浴した。前回と同じく旧約学担当で今は学務局主任も兼任の胡(フ)准教授(英語名ウェズリ)がホスト役を務めてくださった。担当したのは旧約聖書アラム語と旧約聖書の古いギリシャ語訳である70人訳であった。いずれも毎週6時間、あわせて12時間教えることとなった。
アラム語の方は、参加者はヘブライ語の基礎はもう習得していることを前提にしていたので、今年の7月に出版されたばかりの私の聖書アラム語読本を使って文法の基礎を最初の週に概観し、早速ダニエル書2章から講読にかかり、アラム語の部分の最後の章である7章まで読み終え、残った一時間は、死海写本中の有名な、アラム語で書かれた「創世記外典」中の第20欄、聖書では族長アブラムが「君は別嬪さんだ」(創世12:11)だけで済ませているのに物足りなさを感じた著者がサラの美貌を微にいり細にいり描写しているところを読んだ。9人の参加者のうち6人までが女性だったので興味津々であった。
70人訳の方の16人の参加者はヘブライ語、ギリシャ語いずれも知っていることを前提として、簡単な概論の後、私が過去数年の間に発表した70人訳に関連した英語の論文を土台にして学びを進めた。サムエル記下11章から13章前半までを読んだときは、通常参照されるヘブライ語原文、70人訳だけでなく、死海写本中のヘブライ語の断片や、普通に読まれる70人訳より古いと想定されるギリシャ語訳も読んだので程度は高くなった。学生はみんなコンピューターを使っていたので、普通のヘブライ語原文や70人訳は英語や中国語の訳を画面で簡単に参照出来るけれど、古いギリシャ語訳はまだ何語でも翻訳は出ていないので、学生にとっても手強かった。学生の一人から「難しい」、とこっそりこぼされたとき、聴講生として参加していた妻の桂子は「でも、あんまり易しかったら退屈するんじゃない?」と慰めた、とあとで打ち明けられた。学生のなかには、2009年出版の私の70人訳辞書を90ユーロもはたいて買った人もいて、その熱意にはほだされた。
アラム語の時間に一人の学生が質問した。「教会の長老達から、アラム語の勉強なんかになぜ時間を費やされるんですか?、伝道とか信者の世話とかの方が大事じゃないんですか?、と尋ねられたらなんと答えたら良いんでしょうか?」 聖書を原語で読んだからとて解釈上の問題がすべて氷解するわけではないが、現代語訳だけを読んでいたのでは分からない、いろいろな解釈の可能性が見えて来るし、どんなにすばらしい翻訳でも翻訳しきれないニュアンスが分かるようになる、そのおかげで自分の聖書理解も深まり、それは説教にも反映されて来るだろうから、それは一般信徒にも裨益することは間違いない、というのが私の回答だった。具体的な例として、聖書の原語と違って、中国語のように名詞の単数複数の違いを表現しない言語では、ダニエル書で、ダビデの神をさすときは、ダビデ自身やその3人の同僚達も、異教の王達でさえ「神」という名詞を単数形で使っており、彼らが命がけで一神教に徹したことが見えてこない。また、創世記38:18節は「彼女(タマル)は彼(ユダ)によって妊娠した」と訳すのが普通だけど、ヘブライ語原文を見れば絶対にそうは訳せないことはヘブライ語を勉強し始めてまだひと月もたっていない学生にだって分かる、「彼女は彼のためを念って妊娠した」としか訳せず、そうすると、ベツレヘムの人たちが新婚の花婿のボアズに向かって「主がこの若い女(ルツ)によってあなたに賜る子によって、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように」(ルツ4:12)と言ってお祝いの言葉とした理由が分かるし、タマルがこのルツ、その他の二人の女性と並んで、イエスキリストのご先祖としてキリストの系図に名を連ねるに至った(マタイ1:3)わけも分かる、というようなことを語った。
授業のなかで学生がした質問の程度も高く、私が出した質問に対する彼らの回答のなかにも私がそれまでに見落としていたようなことを示唆するようなものもあって、彼らの聖書原語に対する熱意だけでなく、学問的な程度の高さも伝わって来た。
学生達のなかには6年前に教えた学生も3名いた。彼らは単位を必要としているわけではなかった。彼らは、なぜ私が彼らの神学校に来たかは知っていたが、最初の授業の時に学生全員に私の動機を語った。日本の近代史、50年間の日本の植民地であった台湾で日本が何をしたか、敗戦後の台湾に対する日本の態度についての私の見方を彼らに押し付けるつもりは毛頭なかったけれども、8週間の接触を通して私の真意は伝わったように思う。また、私達夫婦から単に聖書原語についてだけでなく、クリスチャンとしての生き方について非常に貴重なものを教えられた、と個人的に打ち明けてくれた学生が少なくなかった。ヘブライ語の文法上の現象を説明するのに私が漢詩の五言絶句の一つを黒板に書いたところ、年配の学生の一人が以下のような七言絶句を献呈してくれ、私の生き様を見事に表現してくれた。
村鄉少年起東瀛
岡山洋海闖西行
崇神愛人精閃語
光啟後生榮主名
韓国から来たという学生の一人は将来中国に伝道に行くつもりだ、ということだったが、日本人の私に自分の訓練の一端を担っていただいていることを感謝します、と言われたので、私も、日本人でありながら、韓国人の教育に携われることは望外の喜びであり、特権であることを伝えた。
今回も行動半径を神学校の外にも広げ、台北のいろいろな台湾人や日本人に接触した。
前回大変お世話になった江春光さんは86歳で尚健在で、何度か食事もごちそうしてくださり、日本人としての生い立ち、現在の心境を忌憚なく語ってくださった。今回最初にお会いする前に、昨年師走に日本聖書協会・教文館から出版された拙著「私のヴィア・ドロローサ:『大東亜戦争』の爪痕を訪ねて」も読んでいてくださり、植民地時代の後半、日本は傲慢になり、敗戦の悲哀を味わったのはそれも一つの原因ではないか、と言われ、前回のように、親日一辺倒ではないような感触を受けた。
もう一人の、80歳半ばの台湾人女性は、拙著の中に私たちが6年前に、日本軍の性奴隷としてなぶりものにされた台湾人女性を訪問したことに触れているのに言及しながら、あのような人たちは看護婦募集の新聞広告を見て、応募したのではないだろうか、と言われた。6年前にはそのことを確認しなかったが、今回、台湾人「慰安婦」を支援するために働いている現地の団体の事務所を訪ねた時、現在までのところ犠牲者として特定された59人のうち、当時花柳界に身を置いていたのは一人だけで、あとは応募して前線に行ってみたら、話が全く違っていて、抗議し、帰宅したくても許可されなかったのであるから、これは実質的に強制売春にほかならない、ということが分かったので、その旨後日先ほどの台湾女性にお伝えした。80の坂を超えた、日本人として生まれ、日本人として、日本語で教育を受けた世代の台湾人の場合は、江さんの場合もそうだが、日本の植民地から解放された後に大陸から乗り込んで来た蒋介石の一味よりは日本人の方がまだましだった、として、我慢して生き抜いて来た、という複雑な過去を背負っておられるので、彼らの日本観をぶった切りにするのも躊躇した。
ある午前中、台北市婦女救援社会福利事業基金会の康(カン)事務局長を訪ねて慰安婦問題に対する取り組みについて意見を交換したが、話が済んでから、事務所からそう遠くないところに、慰安婦問題についての恒久的な展示をする場所が準備中であり、来年8月開館の予定である、として案内してくださった。加害者は勿論であるが、被害者も不当に受けた被害の歴史を忘れずに記憶し続けることが大事ではないか、そういう意味でもこのような施設が出来ることは素晴らしい、と申し上げた。
台北には日本語で礼拝をしているキリスト教会が三つあるが、その二つで日曜日の説教も依頼され、創世記32章から「君の名は?」の題で話をさせてもらった。また、聖書研究会の指導も二度頼まれ、そういった接触を通して、台湾在住の日本人としてあるべき姿勢についての意見の交換も出来た。最近日本人学校の教員として派遣されて来た、という一人の方は歴史を記憶することの必要な点で全面的賛意を表された。
数年前に創立された台湾日本語聖書教会の陳(チェン)加壽子牧師は、礼拝で説教をさせてくださっただけでなく、拙著を買って読んでくださり、私たちのアジア旅行への支援を表明してくださった。
中華神学院校長の蔡(ツァイ)先生の教会の、主として大学関係者の集まりに一夕招待されて私のアジア旅行についての話を求められた。私の話の要点は「前事不忘後事之師」であることを皆さんに申し上げた。
終わってから、一人の女性が近寄って来られ、祖父は今でも日本には絶対旅行したくない、と頑張っています、と言いながら私を抱きしめてくださった。
国際日語教会のうすき牧師は、前回の訪台の折、1930年に台湾原住民と日本人との間に悲劇的な衝突のあった霧社にご一緒くださったのだが、今回も、台北から車で一時間半ぐらいの宜蘭(イラン)の原住民の寒渓教会までの遠出を計画してくださり、台北の教会の会員数人と出かけた。台日の関係の話になった時、ご自分も原住民である通訳の女性が、植民地時代の日本は台湾の近代化に絶大な貢献をしてくれ、人種的差別もしなかった、と強調された。それに対して、私見として申し上げたのは、植民地経営は慈善事業ではなく、究極的には本国の企業の利益、利潤を目指すものであり、道路や鉄道、港湾施設が建築されたのも、現地人のためを思ってなされたものではなく、台湾から上がる資源や、農産物などを効果的に輸送するためであったのではないだろうか、ということである。イエスがある時、今のレバノンの方に足を伸ばして活動されたとき、ユダヤ人でない土地の女が気の狂った娘をなんとかしてください、とお願いしたところ、自分の子供にやるはずの食事を犬にやるわけにはいかない、と驚くべき発言をして断ろうとされた。しかし、女もそれで引き下がろうとはせず、仰せの通りではありますが、犬ころでも食卓の下に落ちたくずを貰って食べます、と言って、さすがのイエスもこれには降参されて癒してあげられた、という話(マタイ15:21−28)を引用し、植民地時代の台湾人もおこぼれに与った、ということではないのだろうか、と申した。台湾中央大学で「外国語の学び方」についての講演を依頼して来られた劉(リウ)氏も、日本総督府が石門に1945年に完成させた大規模なダムに案内してくださったが、これも同じであろう。また、台湾の戦前派の人たちが、大阪帝大より先に日本が作ってくれたとして誇りにしている台北帝大も、1945年時点で、学生総数1761人中、台湾人は350人だったという記録が残っており、内地人の学生と同じくらいあるいはそれ以上に優秀な台湾人が多数閉め出されていた、と言って間違いではなかろうし、こういう人種差別は当時の台湾の高校でも公然とまかり通っていたことを、植民地政策の専門家の故矢内原忠雄が名著「帝国主義下の台湾」で指摘していることも付言した。寒渓教会の黄(シャット)牧師を囲んでの談話の席上で、同牧師が、原住民の間では新しい人間関係がはじまる時、その絆を象徴的に表現するために、ひとつの杯から酒を飲むという習慣があったのを、当時の日本は、これは野蛮で、非衛生的である、として禁止したが、それは原住民の伝統的な文化に対する深い侵害であった、と発言された。日本は、保安上の理由から原住民から一切の銃を取り上げたが、彼らにとっては、銃は殺人のための武器ではなく、狩猟のために必須の道具であったのだから、これも彼らの生活基盤を根底から破壊するものだったのではないのか、と申し上げた。かてて加えて、道路工事だとかなんだとかいって農繁期であろうとお構いなしに狩り出されたり、村に駐在している日本人巡査に妻や娘を陵辱されたりというようなことが重なって1930年の霧社における原住民による武装蜂起が起こったのであろう。殺害された日本人の犠牲者の息子が後年、復讐では人間関係は修復出来ない、として原住民の間に宣教師として日本から来たという人の話も出たが、その宣教師は、130人余りの日本人犠牲者に対して、日本は直ちに4,000人以上の兵を投入し、毒ガスまで空中から投下して「討伐作戦」を展開し、原住民の間に4,000人以上の犠牲者を生んだ、ということはご存知だったのだろうか、と思わざるを得なかった。この事件を描いた「セデック・バレ」というDVDを今回台湾へ出発する直前に観たが、討伐作戦を指揮する日本軍の将校が、「日本は彼ら蛮人を文明人にしようとして来たのに、われわれの方が野蛮な戦術をとることを余儀なくされている」と呟くシーンがあるが、その史実性はともかく、極めて印象的であった。
6年前に、その時の学生の一人であったジェームズに伴われて高砂義勇隊の戦没者記念碑を訪ねたが、そのジェームズが、今回アメリカから私に会いにわざわざ戻って来てくれて、その時のもう一人の学生でこれもアメリカから戻って来たグレイスと日本料理店でご馳走になったが、今回の訪台で特に記憶に残っていることの一つは義勇隊の稀な生還者の一人との出会いであった。前述の陳牧師との繋がりで、本年92歳という日本名を中野宇吉さんというご老人に二度、長時間にわたって体験談を伺うことが出来た。17歳の時志願して、訓練を受けた後南洋へ派遣された、というのである。幸いに生きて戻っては来れたものの、彼だけでなく、すべての台湾人に言えることだが、日本の敗戦の結果として、台湾は最早日本の植民地ではなく、台湾人も日本の臣民ではなくなった。それのみならず、中野さんのような帰還兵たちに対して戦後、日本から、その犠牲、努力を認める、顕彰するようなジェスチャーが何一つなされていないことに対して中野さんのような人たちはいい知れぬ不満を抱いておられる。帝国陸軍将校であった筆者の亡父は戦後軍人恩給をもらい、死後も母が続けてもらっていたこと、しかし赤紙一枚で召集された内地の日本兵には一銭も出なかったことを中野さんに語ったものの、指を切って血書まで出して志願した中野さんのような人にはもう少し違った対処の仕方があるのではないか、と同じ日本人として慚愧の念に堪えなかった。しかも、中野さんは、ブーゲンビル島で、米軍飛行機によって撃ち落とされた山本五十六元帥の日本機の墜落現場にも行き、元帥の遺体を鄭重に埋葬した、というのであるが、戦後山本家から何の連絡もなかった、というのである。(この報告をお読みになった方で、元帥のご遺族と連絡出来る方法をご存知の方は、是非私までご連絡いただきたい) 中野さんはまだいくらでもお話しになりたかったようだったけど、時間切れで切り上げざるを得なかった。ご高齢にも拘らず、驚くべき記憶力で、「恩賜の煙草」を歌い出されたときは、私は行きどころに困った。戦時中の軍歌を歌いながら、反戦デモに行く、と言ったもう一人の生き残りの高砂義勇兵のことをここで思い出したので、軍歌「戦友」はご存知だろうか、とかもをかけたところ、知っている、ということで、二人で合唱した。中野さんたちは戦時中、日本軍によって給与の一部を強制的に貯金させられたのに、その支払いも受けていない、ということであった。払い戻すから申し出るように、ということを数年前にテレビで流した、というような情報もあるけど、日本政府が一人一人に個別に連絡するのが建前ではないか、と思われて仕方がない。わが祖国は慰安婦だけではなく、こんな犠牲者も台湾人の間に多数に出して、未だに頬かむりしているのである。6年前に訪ねた高砂義勇隊戦没者記念碑の建設に日本が一銭たりとも寄付した、とは記憶していない。中野さんのご子息は日本の神学校に学び、そこで知り合われた丸山陽子さんと結婚、ご夫婦で台北で山から大都会に出て来て苦労している原住民達のための教会を指導しておられるのだが、丸山さんが、植民地時代の日本のやったことには、結果として台湾人を益した面も少なくはないけど、当時の日本人、日本企業の動機にはしばしば問題があったという理解を示され、私たちの考え方が一致しているのを確認した。別れ際に中野さんが、私のことは「兄」と呼んでください、と言われた。では、私たちのことは「弟、妹」にしてください、とお願いした。
中華福音神学院の職員達からは私が教えに来たことに対して何度もお礼を言われ、蔡校長や、ウェズレイや彼のもとで働く事務員のエミリー(彼女も6年前の生徒の一人)、文書保存部門で働く、6年前に知り合ったルースなどから何度も食事や遠出に呼び出してもらい、神学校からは到着早々お小遣いや、台北のSuicaまで頂戴し、豪華なアパートをあてがってもらい、週末以外は昼食、夕食も神学校の食堂でただで戴けて、お礼のいい様もない。いろいろな機会に差し入れがあり、台湾製のどら焼きの袋がアパートの扉の外の把手に下がっているのに気付いたようなことも一再ならずあった。
ある日、授業が終わった時、韓国人学生が、ラップトップと厚手の本が5/6冊入った私の重いリュックサックを部屋まで持って行ってあげましょう、と申し出てくれ、4階のアパートまで来てくれた。半時間ぐらいしたら、ドアにノックの音がしたので、開けてみたら、もう一人の女学生が、車輪付きのバッグを持って来てくれた。「今日の授業で、聖書を読むときは感情移入が大事だ、と教わりましたから、その実践です」と書いたカードが中に入っていた。翌日からはそれ押して教室に出るときは、なにか紙切れを一枚運んでいるだけみたいだった。別な日に、図書館で階段を上る途中でつまづいて倒れ、片方の腕を擦りむいたのを同じ部屋で勉強していた先の女学生が気付き、しばらくしてから彼女がアパートに現れたのでなんだろうと思ったら、消毒液の入った瓶と絆創膏を手にしており、そのうえ、このサンダルの方が安全かもしれません、と新しいサンダルまで買って来てくれていた。
最後の授業の時、学生の一人がキーボードで伴奏してくれて「ヒンネマトーブ」を合唱した。詩篇133:1「見よ、兄弟が一緒に座っていられるのは何と良く、楽しいことであろう」を歌詞とするイスラエルの民謡であるが、歌いながら、たまらなくなって、一人一人学生のところを回って固く握手した。
オランダに戻ってから、何人かの学生から個別にメールをもらい、「先生たちがいらっしゃらなくなって寂しいですー」と書いてあるのだけど、ただの決まり文句ではない、と思えて仕方がない。
2015.12.22日記
村岡崇光