10年してフィリピン再訪
台北での2時間の待ち合わせを含めて15時間の空の旅も無事終わり、1月14日マニラ空港に到着すると、ミハエル•マレッサ博士が迎えに来てくれていた。彼は、既に10年以上国際的な宣教団体(OMF)の宣教師としてフィリピン聖書神学校(BSOP)で旧約聖書を講じている。彼の運転で空港から聖書翻訳者を訓練する団体の経営する宿舎に直行した。フィリピンを最初訪問した時も、彼の神学校で一週間教えさせてもらったのだが、その時は彼はたまたま休暇で祖国ドイツに戻っていた。後日彼の学生の一人から、彼がここの神学校で高く評価されているのを聞いて快哉を叫んだ。ミハエルはライデン大学で、私の指導のもとに博士号を取得したのだった。私にとっても彼は神様があらかじめフィリピンへ派遣していてくださっていたように思えた。戦後生まれのドイツ市民として私のアジアでの活動の動機、背景をよく理解できる立場にあった。ミハエルはBSOPでの二週間の私の講義だけでなく、あと二つの神学校での講義の調整を極めて能率的に行い、良い地ならしをしてくれていた。
翌日の日曜、私たち二人はミハエルからマニラ市内のレストランで美味しい昼食をふるまわれ、細君のアンケと三人の子供とも久しぶりの再会を果たした。そこから、マカティにあるマニラ日本語教会での礼拝に連れて行ってもらった。20年前に始まった教会で、フィリッピン人の牧師と結婚しておられる宣教師のゲレロ馨さんの指導のもとに二十人くらいが集っている。その教会から依頼されて、2月5日の日曜礼拝では創世記32章から説教させてもらったが、フィリピンに住む日本人が何をすることができるか、何をなすべきかを考えさせられた、と私の説教を総括してくださった。礼拝の席には、私の背景をご存知のゲレロさんからの連絡で現地の日刊日本語新聞「マニラタイムズ」の記者の姿も見えた。翌日の誌上には第一面に私の説教について「『戦争に目を閉ざすな』、アジア巡行の聖書学者が講演」の題でかなり詳しく、正確に紹介されていた。ゲレロさんからの連絡を受けて出席された人たちの中に、日本軍の性奴隷として痛めつけられたフィリッピン女性たちと定期的に会っているという日本人女性、日本軍のBC級戦犯について著書もあり、研究休暇で来ておられる広島市立大学の先生もあった。その次の日曜も説教を頼まれ、ルカ7:36−50から「言葉にならない愛」と題して話したが、国内のあちこちの道路脇に立ち並ぶ、とても人家とは呼べないような小屋にも言及したが、経済格差の厳然たる証拠であった。ルカ福音書に登場する「罪ある女」にならって、愛について語らなくとも、愛を行動に還元できるのではないのでは、というのが私の主張であった。
マニラでの最初の週はケソン市にあるアジア神学校での授業であった。旧約聖書の古いギリシャ語訳である七十人訳について集中的に教えてもらいたいという、のが私を迎えてくださったゴロスペ先生からの依頼であった。単位を必要とする学生の場合、最低教えなければならない授業時間数が政府の規定に出ているために、月曜から土曜まで毎日6時間教える羽目になった。78歳の教師には楽ではなかったが、先生二人を含む学生たちにとっても相当な負担であったろう。最初の時間に言ったのだが、聖書学の中でも特に重視されているのでもないこの分野に関する私の数冊の本を、一冊を別として他はいずれも著者30パーセント割引でも40ユーロ以上というものを合計25点も注文した彼らの熱意には圧倒された。そのなかの一冊は74ユーロもするのである。後日聞き知ったのだが、神学校を卒業して田舎の教会の牧師になった場合の月給が40ユーロぐらいだというのであるから、唖然とした。学生の中には、インドネシア人、ミャンマー人も一人いて、両人からも心のこもった感謝のメールを受け取った。
最初の時間に、私がアジア訪問の背景について語ったのを聞いた学生が、彼女の親友がフィリッピン人の「慰安婦」のための弁護士をしている、と明かしてくれた。
最終日、フィリピン聖書協会のエドガー•エボホ博士夫妻がなんの予告もなしに教室に姿を現した。エドガーは10年前、親切に、能率よく私たちの世話をしてくれたのであった。この再会に大喜びしたものの、あれから10年、同じ目的でフィリッピンを再訪しなければならない現状に私の心は沈んだ。
次の二週間はマニラから北に車で3時間余りのバギオにあるアジア太平洋神学校で過ごした。海抜1500メートルぐらいのバギオはフィリッピンの軽井沢とも言われ、裕福なフィリッピン人には人気のある避暑地である。10年前、ここでの授業の最終日に、ジープニーの小さい模型をもらい、ジープニーに乗ってまた来てください、と言われた。[ジープニーはバスとタクシーの合いの子みたいなもので、バスよりもはるかに多く、フィリッピン人にとっては必須の足であるが、これにも乗れず、旧式の人力車、自転車、歩行者もざらである。] 今回も私を招いてくださったケイ•ファウンティン先生が最初の日に挨拶に来られた時、今回は神学校がピカピカの新車のトヨタ•ジープニーを差し向けてくれて、それに乗ってマニラから来ました、と申し上げた。二週間にわたって、上級ヘブライ語を教えさせてもらったが、十六人の学生の出身地は多彩で、フィリッピン人のほかに、ミャンマー、タイ、ブータン、ネパール、中国、韓国からの留学生であった。
教室外でも職員や学生たちと交流する機会も十分にあった。ある日、私たち夫婦はミャンマーからの留学生の部屋で美味なビルマ料理をご馳走になったが、ミャンマーの主たる宗教である仏教と違って、キリスト教信仰は哲学ではなく、歴史に深く根ざしており、それもただ教会の歴史でなく、キリスト教徒であるかないかを問わず、一般の歴史もそれには関わってくるのではないか、と語った。別な日、数名の韓国人学生から食事に招ばれた時、その中の一人が、韓国、中国、日本は将来共同で東北アジアの平和、安定に大いに貢献できるのではないか、と発言したので、私はそこまで楽観的にはなれないと前置きして、91年にオーストラリアのメルボルンからオランダに転勤してきた時、国の東の方で行なわれているオランダとドイツ軍の共同演習を伝える現地の新聞記事に我が目を疑ったことを語った。東支那海で日中両国の海軍の共同演習が近い将来に行なわれようとは到底考えられない。
初級ヘブライ語を教えておられる韓国人の姜先生ご夫妻に街のレストランで昼食をご馳走になった時、私のクラスの韓国人学生の一人が、植民地支配の歴史を心から悔いている日本人に出会って非常に感動したことを私に漏らしたことをお伝えした。
日本からの宣教師としてギリシャ語を教えておられる吉原先生ご夫妻には10年前にもお会いした。今回はそのお嬢さんも同席で久しぶりに本物の日本食をご馳走になったが、両親がここの神学校の卒業生という若い日本人留学生との出会いもあった。彼女は拙著「私のヴィアドロローサ:『大東亜戦争』の爪痕をアジアに訪ねて」(東京、2014)と、私がオランダ語から和訳したハーマー著「折られた花:日本軍『慰安婦』とされたオランダ人女性たちの声」(東京、2013)を貪るように読み、神学校の礼拝堂で私が説教した時、感情をこらえようと苦闘しているのが見えた。
今回も神学校の礼拝堂での説教を依頼され、創世記32章から「君の名は?」の題で語った。中国語部門の学生のための同時通訳もあったが、礼拝後、そこに出席していたという学生が、非常に感動したので、原稿を翻訳したいから送ってもらえないだろうか、とのメールが入った。礼拝の最後にファウンティン先生が謝意を述べられ、総長のタム•ワン先生と教員数名が講壇の前で私の肩に手を置いて、私のアジアでの活動のために神の祝福を祈ってくださった。
妻とフィリッピンでの最後の二週間を過ごすことになるBSOPでは最初の週に九人の学生に上級ヘブライ語を講じた。三人のフィリッピン人のほかに、中国大陸からの留学生が二人、インド人、韓国人、日本人(!)、オランダ人(!)が一人ずつという顔ぶれであった。ある日私の79歳の誕生日となり、授業の後にみんながHappy Birthday to Youを唱和してくれ、プレゼントが手渡された。すると、突然に、オランダ人の学生とミハエルがLang zal ’ie levenと歌い出し、私はいたく感動した。[「彼が末長く生きながらえますように」を意味し、「ラングザルイレーヴェン」と発音する。] この有名なオランダの誕生日の歌で祝ってもらい、それをしかもフィリッピンでとはこはいかに! お祝いは食堂での昼食の時にも続き、インド人学生のアパートで夕方にまで及んだ。これまでの私の人生で最高の誕生日となった。純オランダ式だったら私は破産してしまいそうな豪華なお祝いであった。[オランダでは、誕生日を迎える本人がお祝いの費用は捻出する慣わしである。]
第2週目は七人の学生を対象に七十人訳の講義であった。この神学校でも礼拝説教をする機会を供せられ、リム先生の通訳で創世記32章から語った。説教の原稿にあらかじめ目を通された先生が非常に感動されたそうだ、ということをミハエルが教えてくれた。私が言わんとしたことの要点は、名前はその人のアイデンティティ、その人の過去を体現するものであり、このことは個人のみならず、集団にも妥当する、というにあった。ヤコブだけでなく、彼の子孫、ユダヤ民族の全員がぺヌエルであった出来事を何百年後まで記憶していて、動物の腿のつがいの上の腰の筋肉は食べない(創世記32:32)という歴史がそれを教えている。私が日本人として自国の歴史にどのように向き合うかを語り、ひとが自分の過去の言動を真摯に悔いているといることは、単に謝罪の言葉だけでなく、具体的な行動によって被害者にはっきり伝わると思うので毎年アジアに無償の講義に出向いているのだ、とも付言した。
他の二つの神学校でもしたように、最後の日はイスラエル民謡「ヒンネマトーヴ」をヘブライ語で唱って閉じた。歌詞は「見よ、兄弟が一緒に座しているのはなんと素晴らしく、楽しいことか」という詩篇133:1の言葉である。その日の朝の祈りの時間に、パウロが「もし君たちがキリストに属する者ならば、君たちは神に約束されたようにアブラハムの子孫なのである」(ガラテヤ3:29)に目が止まり、われわれも、この歌を兄弟同胞として歌い、交流を楽しむことができるのではないか、と一同に語った。
食堂での最後の昼食の時、年配の事務局の女性がやって来られて、「また是非いらしてください」と言われたので、「私は帰ってきます」と応じたところ、「誰がそう言ったかは先生と同輩の私は存じております」と微笑まれた。[1942年初頭フィリッピンに侵入した日本軍に抗しきれず戦略的撤退に踏み切り、同年3月20日オーストリアにたどり着いた米軍の最高司令官ダグラス•マッカーサーが言い放った “I shall return.” 彼は、米軍を指揮して1944年10月23日にレイテ島に上陸した。]
三つの神学校のいずれも、滞在中の宿、食事、車の手配も十分すぎるくらいに配慮して下さった。首都マニラから14キロほど離れているヴァレンズエラに位置するBSOPはマニラまで何度か車を出してくれた。ある週末ミハエルに伴われてランバンにある日本公園に出かけることにした。人工湖カリラヤ湖を眼下に見下ろすランバンの丘の中腹に大理石の巨大な記念碑がある。右側に「比島戦没者慰霊碑」と日本語だけで書いてある。左側に日英両語で「フィリッピン政府の協力のもと1973年日本政府建立」という告知が嵌め込んである。これでは、日本語チンプンカンの訪問者にはこの馬鹿でかい石碑がなんのためのものなのか全くわからないであろう。すぐ近くにいたフィリッピン人の警備員二人に、この慰霊碑は約50万人の日本人兵のものであることを知っているか尋ねたが、その返答はしどろもどろだった。彼らのおかげでその倍ぐらいのフィリッピン人が命を落としているんだ、と伝え、「この犠牲者たちのためには本当に、本当に申し訳ありません」と言いながら私は自分の感情を制しきれなくなって警備員の一人の腕に顔を埋めた。去年1月にここに来られた天皇は日本兵の戦死者たちに対して深い悲しみを表明されたけど、フィリッピン人たちに詫びられただろうか? 警備員は天皇訪問のことを報じた現地の新聞の切り抜きをポケットから取り出して見せてくれたが、謝罪はされなかった、と呟いた。それからしばらく後に園内で行き合った二人のフィリッピン人男性が私を見て親しげに微笑んだ。先ほどの警備員から私が見せた醜態について聞いていたのかもしれない。慰霊碑の近くで先生に引率された小学生の一団に出くわしたので、この石碑のことを生徒たちにどう説明したのか尋ねたところ、「これは日本とフィリッピン両国の友情の象徴です」という返答だった。あの50万人近くの日本兵のおかげで100万近い現地人が日本による占領時代に命を落としているんです、と言わざるをえなかった。更に言葉を継いで、「友のために命を捨てるほどの友情はありえない」と言われたイエスの言葉を引用した(ヨハネ15:13)。すると、先生は日本軍のために散々な目にあわされた祖父のことを小声で語り始めた。もう一人の先生は近くにあった鳥居の写真をパチパチ撮っていたので、これがなんなのかをご存知か尋ねたところ、「否」だったので、これは日本の神道の神社の門に立っているもので、日本の天皇は、言うなれば、神道の大祭司です、と説明してあげた。
ある夕方、BSOPが出してくれた車で、最初の週に教えさせてもらったアジア神学校へ公開講演をするために出かけた。私の前に、ゴロスペ先生が聖書における記憶の概念について話された。最近この国でも歴史修正主義の動きがあり、マルコスは独裁者ではなく、偉大な英雄であったと言い始めている、とのことであった。私の講演は今回、創世記32章を基にして何回か行った説教「君の名は?」を大幅に拡張したものだった。タイのクワイ川の岸辺に立っている記念碑にも言及した。その碑には、太平戦争中、日本軍が当時の国際法を無視して建設した415キロの泰緬鉄道で命を落とした連合軍捕虜13,000人近くの将兵の名が刻まれており、その下に、「私たちはあなたたちを赦すつもりはある。だが決して忘れはしない」と書いてある。そこに表現されている思想は聖書のそれであり、その反対に「赦して忘れよ」は信仰の甘えではないか、と述べた。聴衆の中に、「私は彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出すことはない」(エレミヤ31:34)とあるのとかみ合わないのではないか、と思っている人があることを予想して、ここで「思い出す」と訳されているヘブライ語動詞は「自分の覚えていることに応じて行動する」という意味であることを指摘した。聖書の神は認知症を患われることはなく、一時的であれ、恒久的であれ記憶喪失に陥られることはない。きちんと認められ、告白され、赦された罪のことをまたぞろ持ち出していじめられることはなさらない。しかし、歴史の事実を消したり、改訂はなさらない。罪を認め、赦され、和解するということは自分の言動に対して責任を取るということであることも述べ、前の週の土曜にランバンを訪ねたことにも触れた。1年前の正月に天皇皇后両陛下もそこを訪問された。あの大理石の慰霊碑の建設費に皇室から金一封が供されたとはどこにも書いてないことにお気づきになったであろうか、と自問した。太平洋戦争中フィリッピンで戦死した日本兵50万人余りは昭和天皇の赤子として死したのである。内外の新聞が大々的に取り上げたこのご訪問の中で、戦没者の遺族にもお会いになり、「あの時からずっと本当につらいところを通ってこられましたね」と温かいお言葉をかけられ、遺族の痛みを深く共有しておられることは明瞭であったが、「私の父のおかげで」とおっしゃったとは報道されなかった。戦後70年以上、私たち日本人の大多数はそれを問題にしないできた。フィリッピンに来ているので、元陸軍少尉小野田寛郎氏(平成26年没)のことに触れた。彼は日本の敗戦を知らず、フィリッピンの密林に潜み、29年ぶりに帰国したのであるが、帰国直後にかつての戦友が、「小野田君、一度皇居の庭に行ってみない? 朝の散歩に出ておられる陛下にお目にかかれるかもしれないよ」とすすめたが、「陛下はなんとおっしゃっていいかお困りになられるかもしれない」と言って断った、という。仮に、あの時彼が戦友の提言を容れて昭和天皇にパッタリ出会って「陛下、小野田でございます」と名乗り、天皇が「小野田。本当に悪かった。赦してくれ」とおっしゃっていたら、現在のアジアの政治状況は現状とは雲泥の差を呈し、私は定年退職して浮いた時間は100パーセント自分の学問上の趣味に費やし、毎年十分の一を神様にお返しするつもりでアジアへボランティアとして教えに出てくる必要はないだろう、と語った。ゴロスペ先生は、会場の礼拝堂が満員であるのにご満悦であった。神学校の礼拝は学生は出席を義務付けられているが、今回は出席は随意であり、卒業生や一般市民の姿もあった。
10日間の里帰りをして、3月初めにオランダに無事戻ってからフィリッピンで教えた学生たちからかなりの数のメールを受け取った。みんな口を揃えたように、私たちが恋しい、と書いているのであるが、ただの決まり文句とは読めなかった。中国本土からの留学生の一人は書いていた: 「私たちのためにあんなに時間をかけて教えてくださり本当にありがとうございました。今まで思ってもみなかったことに目が開かれました。また、先生の謙虚な姿勢、私たちに対する思いやりにも心を打たれました。神様が私たちのためにアジアへ送ってくださったマレッサ博士のような優秀な人材を育ててくださったことにも感謝します。AGST/BSOPにまた教えに来てくださる日を鶴首して待ちます。[AGST = Asia Graduate School of Theology. BSOP もこの連合体に所属する神学校のひとつ。] 二週間にわたる講義の中で先生がしてくださったヘブライ語文法の分析、七十人訳の語彙の説明が大変な祝福であったことは私だけでなく、参加者全員の一致した評価です。先生の学問的研究の足跡をはっきりと示してくださいました。私は完全に満足できました。学者として私たちと分かち合ってくださった知識はとても貴重なものですが、先生の誠実さ、親切はそれ以上に尊いものでした。先生が教えてくださった学問上の細かいことは数年後には全部は覚えていないかもしれませんが、私に教えてくだっさった先生がどういうお方であったかは一生忘れません。先生は私が親しく識り合えた最初の日本人でした。これまで私が持っていた日本人観はガラリと変わりました」。これに対する私の返信の中に、「前途遼遠の感は拭い去れないけど、どこからであれ、始めなければならない。私が達成できたことが本当に微々たるものであることは私自身が他の誰よりもよくわかっているけど、たった五つのパンと魚二匹という自分の弁当を喜んで主に差し出したところ、主イエスはそれを祝福して文字どおり何千倍にも増やしてくださったというあのガリラヤの少年の話を思い出して自分を慰めている」、と書いた。もう一人の学生からは「先生がBSOPに来てくださったことで私の家族全員がどんなに祝福されたことでしょう。先生と一緒に聖書を学び、互いの人生体験を分かち合うというこの素晴らしい時を与えてくださった神様に私どもは本当に感謝しています。家内も私も先生の教えと信仰者としての先生の姿勢に深い感銘を受け、教えられることが多々ありました。過ぐる二週間に体験したことは、今後私が韓国人として、また当地で牧師、宣教師としてどのように生きるべきかを考えていく上で重要な指針となると信じて疑いません。聖霊様のお導きにより、私も、先生のように神の国でお仕えする者となりたいと願います。… 先生と桂子さんと出会ったことで私たち両国の辛い過去の歴史に対して新しい視点が開けてきたように思います。[ここで、この学生は、日本軍に「慰安婦」として痛めつけられた婦人たちに5年前に私たちがソウルで会いに行ったときのことについて韓国のキリスト教月刊雑誌に掲載された記事を読んでの印象に言及している。] 私たち両国の間の和解と正義の問題に今後どのように具体的に取り組んでいったらよいかを教えてくださるよう神様にお祈りします」。学生たちの中の希望者には英語版「私のヴィアドロローサ」の電子版を無料で提供したのであるが、この学生もその一人で、受け取りのメールに「最後には、私たちは主イエスキリストと一緒にヴィアベアータ[ここで、この学生は、日本軍に「慰安婦」として痛めつけられた婦人たちに5年前に私たちがソウルで会いに行ったときのことについて韓国のキリスト教月刊雑誌に掲載された記事を読んでの印象に言及している。]を歩くことになると確信しています」と書いてきた。ここにその抜粋を引用したメールや、同じように真摯な、感謝にあふれた通信を読むと、ヴィアドロローサの第14番目の停留所とも言える今回のフィリッピン訪問に費やした時間と精力も報いられて余りあったように思われてならない。神様の御栄光のためにという私のささやかな奉仕をこのように素晴らしい仕方で愛でてくださったお方にはただ感謝のほかない。ご自分のヴィアドロローサの終点に到達されて主が仰せられたただの一言を謹んで使わせていただきたい:「テテレスタイ」(使命完了)。[ギリシャ語でτετέλεσται (ヨハネ19:30)]
これまでもそうであったが、今回多少とも達成されたことがあったとすれば、それはオランダだけでなく世界各地にいる多くの友人たちがこの企画の根底にある動機を心から理解してくだり、いろいろな形で援助の手を差し伸べてくださったことに負うものであることを私は信じて疑わない。この点において私を迎えてくださったフィリッピンの神学校の教職員には特別の恩義を感じている。現地の学者の中でミハエル•マレッサ博士は特記に値する。私の訪問の動機について彼が示してくれた温かい理解、彼の神学校で教えさせてもらった二週間だけでなく、他の二つの神学校とも緊密な連絡を取り、時間とエネルギを惜しみなく費やしてくれた彼の支援がなかったら、今回の訪問はただの夢物語に終わっていたことだろう。
最後になってしまったが、今回も全期間同行し、授業にもまめに出席して側面から支援してくれた妻にも負うところ大である。学生の一人は「村岡桂子さんがご一緒だったことにも感謝します。一人の偉大な学者のこれまでの歩みについて語ってくださいましたが、夫を後ろから支え、多くの犠牲を払っておられる女性。お二人との交流の時は本当に楽しいでした」と書いてくれた。別な学生は「おばあちゃん——私の胸に深く刻まれています。自分は家庭の主婦に過ぎません、と私に仰いましたが、聖書の原語には詳しい方です。本当にありがとうございました。授業の最後の日に頂いたプレゼントは大好きです」とも書いてきた。桂子はまったく初対面の人とでもすぐ打ち解けられるという素晴らしい能力を神様からいただいているようで、人間関係の構築となるとどうも不器用な夫にとってはありがたい存在である。
村岡崇光
17.3.2017
在ウーフトヘースト
オランダ
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