アジアへ二度
ジェットエアウェイズでのニューデリー経由の長い空の旅が無事終わって、1月3日の朝、私たちは無事シンガポールのチャンギ空港に到着した。シンガポールバプテスト神学校の学事主任のフォン先生とホスト役のカラハム博士の温かい出迎えを受けて立派なアパートに連れて行ってもらった。神学校の支援者が外来の訪問者に提供してくださる施設とのことだった。
7時間の時差を処理するのは楽ではなかったが、その日はゆっくり休んで、翌日講義に臨んだ。一週間の集中講義で聖書アラム語入門で、登録している19人の学生の大多数は中国系だった。彼らは全員ヘブライ語をすでに学んでいたので、文法を概観して、すぐにダニエル書2章の講読に入った。
神学校の教職員と学生は大方新顔であったけど、嬉しい例外が二人おられた。一人は2006年に香港の中文大学で教えさせてもらった時に出会ったアリソン•ロー博士で、彼女はその後英国に留学し博士号を取得してここでカラハム博士と旧約を担当しておられる。 もう一人は新訳担当のン•ボンフイで、2009年に台北の中華福音神学院で教えさせてもらった時に出会い、そこでの学びを終えて故郷へ戻って来られたのだった。
この選択科目に学生たちが示している熱意に私は深い感銘を受けていることを彼らに語った。彼らの中の11人は単位を取るつもりで、後日筆記試験を受け、短い論文も書き、私に採点してもらうことになっていた。論文では、ダニエル書6章で、中国語その他の翻訳ではなく、原文で読まなければ分らないことを指摘するように求められた。その関連で、三年前に台北で同じようにアラム語を講じた時の体験について語った。聖書の著者は、自分が伝えようとすることを文学的にできるだけ美しい形で記そうとする努力をしている、ということの例として、漢詩の中から「洛陽女児好顔色」という七言絶句の一行を引用した。その夕方、学生の一人が私の言ったことに刺激されて書いた自作の四行から成る七言絶句をお目におかけしたい、とメールしてきた。四行を上から下に読んでみると私の名前が書いてあり、私の由来、人生観をこの短い詩で見事に表明してあって驚いた。この話を聞いていたシンガポールでの学生が感心したらしく、私のラップトップから黒板に書き写してくれた。(次頁の上の写真)。その日の夕方、今度は妻の桂子がびっくりする番になった。昼間の学生が「私は奥様のことを謳った漢詩を書いてみました」とメールしてきた。(次頁の下の写真)。今度は妻の名前は後ろから二番目の漢字を上から下に配してある。趣旨は、
「彼女は世界中で桂の香りを漂わせつつ神様にお仕えしている。
名声や富には心を奪われず、全身全霊でこのような人生を辿っている」
ということらしい。このシンガポールの女性詩人は、最後の講義の時間に、自作の漢詩を額に入れたものを持ってきて、妻に手渡してくれた。
最初の講義の冒頭に自己紹介を兼ねて、なぜ2005年に続いて再度シンガポールで教えることになったかの説明をしたが、ある日の午前中、学生の一人である郭修岩さんの通訳で、中国語で学んでいる学生のために講演をする機会も供された。
また、一夕、シンガポールバプテストコレッヂで「聖書の教える仲直り」という題で、バプテスト系の二つの神学校主催の会合でも話させてもらった。聴衆は神学校関係者だけではなかった。質疑応答の時間に、私のアジアでの無償の講義が日本の教会にどの程度の影響を及ぼしているだろうか、と尋ねられ、2003年からの私のこの活動に関する記録と思索をまとめて、2014年に日本聖書協会から出版してもらった拙著「わたしのヴィアドロローサ:『大東亜戦争』の爪痕をアジアに訪ねて」が日本のキリスト教関係の報道機関でかなり広く取り上げられた、とお答えした。この会合の時わかったのだが、前年2月15日にシンガポールの日本大使が、1942年にシンガポールを占領した日本軍に虐殺された何千人もの中国系シンガポール人の追悼式典で言われたことについて現地の新聞が報道したことに気づいた人は聴衆の中にはなかった。現地の日本大使がこの式典に列席するのは初めてで、日本の新聞がこれを大々的に報道したのは異とするに足りない。篠田大使は「深い悲しみと哀悼の意を日本人の圧倒的多数とともに共有します」と慰霊の言葉を述べた、というのであるが、現在の日本人の何パーセントがこういう虐殺があったという歴史を多少とも知っているのだろうか。「圧倒的多数」というような外交辞令を持ち出すことによって自分の資質を疑われ、誠意を疑われ、却って逆効果であることに気づかれなかったのだろうか。
神学校の総長のウ先生の招待による晩餐会の席上、同席しておられた学事主任のフォン先生は、1943年3月、そのとき83歳だったお祖母さんが、一緒にいた孫共々日本兵によってマレーシアで虐殺された、と言われたが、詳細には立ち入ろうとされなかった。
ある夕方、外で散歩していたとき、赤ん坊を抱いた母親に行き違ったが、石川逸子さんが書かれた詩の一節が頭に浮かんで母児を直視できなかった。マレーシアに侵入した日本軍がイロイロという村の住民千五百人を老人も嬰児も皆殺しにし、その後40年、村には誰一人住んでいなかった、というのである。その作戦の時、兵隊の一人が母に抱かれていた赤子を掴んで空中にほうり上げ、落ちて来るところに刀を刺し、母親の首をはねた、というのである。そこまでしなければならないのか、と疑問を呈した兵隊には、「この児たちが大きくなったら、反日として育ち、親の仇を討とうとするに決まってる」、と言われた。中国系のこの田舎の人たちには、日本軍に抵抗するのは、中国本土で同じ日本軍によって行われている残虐行為に対する気持ちの表現としては当然であった。
中国系の学生の一人であるチュア夫妻は私たちに対してとても親切で、自宅に食事に招んでくれたり、あちこち車で連れて行ってくれたりしたが、彼は日本軍がシンガポルで犯した残虐行為をなかなか認めようとしない日本政府の態度にイライラしていた。現地の学校ではこういった歴史はきちんと教えられている、とのことであった。
神学校から差し出された相当の額の謝儀はどうしても受け取るわけには行かず、好意はありがたいけど、と言って全額神学校に寄付させてもらった。
最後の授業の時、神学校の職員や学生が一人一人丁寧に、誠意を込めて、写真入りで作ってくださった長らく記憶に残るであろうノートをいただき、何人かの人からは個人的にカードを頂戴して講義を終了した。
シンガポールで過ごしたただ一度の日曜日に、私たち夫婦はシンガポール国際日本語教会の礼拝に出席し、伊藤牧師に頼まれてエレミア31:27−34から「私たちの神様は忘れっぽい神様だろうか?」と題して説教した。2005年、前任者の岡村牧師の時もこの教会の礼拝に出席した。ただの観光のためでなく、あれから13年、また同じ目的で再訪することになったのが返す返すも残念である、と申し上げた。この教会は日本のバプテスト連盟が牧師を派遣しており、その一つの大事な使命は現地のシンガポール人との和解を目指すことにある。
ある午後、伊藤先生のご案内でシンガポールの中心にある血債塔を訪ねた。1967年に完成した高さ67米の4本の塔は多民族社会のこの国の中国人、マレー人、英国人、タミール人の犠牲者を追悼するものである。犠牲者の実数は争われており四ヶ国語で簡単な説明があるが、その表現が穏やかに過ぎるような気がした。英語のものを和訳すると「日本軍がシンガポールを占領した時に殺された民間人を追悼して」とあるが、「シンガポール占領時に日本軍によって殺された云々」とできなかったのだろうか。中国や韓国の類似の場所には日本語の説明文もあるのにここにはそれがない。伊藤先生によると、日本人観光客の訪問地の一つとしてはあがっていないそうだが、先生は日本からのクリスチャンの訪問客は必ずここにお連れすることにしている、とのことだった。
シンガポールでの十日の滞在を終えて、27年ぶりのメルボルンへ感傷旅行に飛び立った。6年間会っていない長男やメルボルン大学のかつての同僚や学生たちに会うためだった。私たちが家族ごと11年間お世話になったメルボルン郊外のバプテスト教会の日曜礼拝では説教を頼まれ、創世記32章から「君の名は?」の題で話した。80年台にそこの牧師だったエドワーズ牧師の他にも何人か懐かしい人達との再会を喜んだが、東南アジアからの移民が多くなっているのが目についた。そういう一人が、祖国の歴史のことであまり自分を苦しめなくても良いのではないか、と言われた。
今年はこれまでと違って、二度続けてアジアに出ることになった。シンガポールの神学校のほかに上海外国語大学から声がかかった。三者で随分工夫しようとしたがダメだった。費用はかさむことになったけど、結局二つの学校の熱意に根負けした。
かてて加えて、もう一つの問題が持ち上がった。シンガポールの神学校で、香港から短期訪問に来ていた学者、フィリップ•パン博士と会い、上海へ行く前に香港に二、三日行くことになると私から聞いて、ぜひ私たちの恩福聖経学院にも教えに来てもらいたい、と懇願され、お引き受けする羽目になった。当初の計画では、12年前に香港で教えた時の学生の一人が結婚するので式の時にすでに他界しておられる父親の代理を務めてもらいたい、と言われていたのだった。その女学生だったカルメンはその後も私たちのアジアでの仕事に関心を持ち続け、私が教えているところへ何度か訪ねて来てくれ、今回もシンガポールで会ったのだった。
3月10日土曜の夕方遅く香港に到着、カルメンに温かく迎えられた。
翌日は香港日本基督者教会の礼拝に出席、二度続けての説教を引き受けた。二度目の時は広東語の同時通訳付きだった。創世記32章から「君の名は?」が題だったが、会衆は熱心に聞いてくださった。最後に斯波牧師がお父上の日本軍兵士としての体験を語って締めくくられたが、日本の教会の指導者の中には戦争責任の問題にはあまり関心のない人も少なくないので、嬉しかった。
その夕方、恩福聖経学院で「前事不忘 後事之師」の題で公開講演をする機会があった。神学校関係者以外にも一般の出席者も加えて200人以上が見えていた。神学校で宣教学を講じておられるエルトン•ローさんが熱を込めて日本語から広東語に通訳してくださった。あとで桂子から聞いたところでは、何人かの人が涙ぐんでおられた、という。会は予定より半時間超過し、神学校総長のパトリック•ソー博士が祈りで締めくくられたが、その中で、講演者の真摯な悔いの姿勢、理性的に、自分なりに考えようとする態度、祖国の罪責に対して自分なりの責任を取ろうとする態度、それを具体的な行動に還元しようとする生き方に学ぶよう聴衆に促された。会が終わってから、中国人女性が日英両語で書いた手紙を手渡してくれた。ホテルに戻ってから読んでみたところ、講演についての広告が目について、ネットで私のことを読んで感銘を受け、今夕のような話は初めて聞いたと、走り書きしてあった。数日後、ホテルに訪ねて来られ、日本人から改悛の言葉を聞きたくて30年待っていたこと、日本軍による占領中に祖父母は日本兵に虐殺され、資産は全部巻き上げられた、と言われたが、香港が占領された1941年より数年前に生まれた私たち夫婦二人の日本人にそういう話をするのはどんなにか辛いことだろう、と思いやられた。
翌朝、12年前と同じように、今回もカルメンに伴われて香港索償協会の事務所に向かった。戦争中日本軍政は軍用手票なるものを発行し、香港市民は一人残らず、自分の所有する香港ドルと強制的に交換させられ、その円紙幣の裏には後日しかるべき時、インフレも考慮に入れて、ドルにして返済する、と印刷されているのに、日本政府はいまだにその義務を不履行のままであり、その不正を関係方面に訴え、約束を履行してもらう運動を続けているのである。私たちを迎え入れてくださった劉文主席が自分は戦後世代だ、と自己紹介された時、12年前の主席の呉さんが、「この負債がきちんと決済されない間は、私たちの子の世代、孫の世代、曽孫の世代も要求し続ける覚悟である」、と言われたのを思い出した。
夕方には、神学校の教職員、学生を対象に「なぜ聖書を原語で読むのか?」という題で講演した。みんな熱心に耳を傾けているのが看取された。
その翌日から七十人訳についての集中講義が始まった。午後1時から6時まで、4日連続だったが、最近八十になったばかりの者にはちょっとした重荷であったが、ずっと若い25人ほどの学生たちにとってだって楽ではなかったろう。ここでも、学生たちならびに神学校の熱意に深い感銘を受けた。どこの神学校でも、七十人訳は選択科目の中でも上位にはないであろう。
一夕、パン先生に夕食に招かれて、街中の中華料理店へ繰り出した。若い客に溢れかえっていたが、女性たちがいかにも楽しそうにお喋りしているのを見て、戦争中だったら、日本人の男性が入ってくるのが目についたら、一斉に逃げ出しただろうに、と思った。
ここの神学校もかなりの額の謝儀を払いたい、と言われたけど、固辞し、神学校に寄付させてもらった。それだけでなく、神学校は、立派なホテルの部屋もあてがってくれ、ホテルから学校までのタクシー代も出してくれ、着いてすぐに小遣い銭まで手渡された。
香港最後の日のカルメンとチェングイの豊かに祝福された結婚式も終わり、父親の代理役もなんとか果たせて、日曜日には上海への機上の二人となった。
上海の浦東(プドン)国際空港にはアラビア学が専門の李先生が鶴首して私たちの到着を待っていてくださった。飛行場から目指す上海外国語大学の迎賓館に連れて行ってくださり、14階の素晴らしい部屋に落ち着いた。迎賓館は教室まで歩いて数分という便利さだった。
上海外大は欧米、極東、東南アジアの言語だけでなく、アラビア語、ヘブライ語、トルコ語など中近東の言語も教える中国でも有数の大学の一つである。李先生は私を招んで大学始まって以来初めてシリア語を教えてもらおう、とされたのであろう。ある日、ごく最近設立された上外全球文明研究所の所長だという王(ワン)先生にもお会いしたが、先生はエルサレムの私の母校でヘブライ語学で修士号を取得、ケンブリッヂでアッシリヤ学で博士号を取得された、ということだった。李先生はセム語学の分野の蔵書を増やす予算が大学図書館からおりたので、300冊ぐらい適当な本を紹介してもらいたい、と私に頼まれた。恩返しにと引き受けたはよかったが、ゆうに10時間はかかった。しかし、私の専門分野に関する知識がこのような形でアジアにおける高等教育に貢献できることはとても嬉しかった。私自身がこれまで半世紀以上関わってきた専門分野で近年アジアで関心が年毎に高まりつつあるのは驚異に値する。上海滞在中、三月末に北京大学の林博士の招待に応じてシリア語に関する講義に出かけた。それより数週間前のメールで、北京大で初めてのシリア語初級の授業に40数名の学生が現れて自分も魂消ている、と言って来られた。私の講義にも林先生が予期されたより多くの出席者があった。妻は教室の一番後ろの列に座っていたが、予定を半時間超過して90分私が話している間、船を漕いでいる人は一人もいなかった、と後で話してくれた。私のヘブライ語学と七十人訳の分野での研究業績を評価してくれた英学士院が昨年バーキット賞を私に授与してくれたことは聴衆にはあらかじめ林先生が知らせておられた。この賞が初めて授与された1925年以来の受賞者の中で私が初めてのアジア人だった。第二のアジア人受賞者がこの学生たちの中から将来出て欲しいと切望した。ライデン大学でもシリア語は定期的に教えられているけど、初級のクラスに五人以上の学生があったためしがあるだろうか? 中近東学では世界的に有名なシカゴ大学でもそう変わらないのではなかろうか。上海外大の卒業生でシカゴでセム語学の分野で博士課程に入っている学生が私の講義に参加したいと言ってわざわざ一時帰国していた。
李先生が市内の他の大学にも呼びかけてくださって十五人の学生が私の集中講義に出席した。ヘブライ語もアラビア語も知らないという学生も数人いたので、スピードを少し緩めたが、それでも二日目にはシリア語訳の聖書の拾い読みを始めた。主の祈りを学んだ時、私はこの祈りを次の授業までに暗記して、原文を見ないで教室で祈ってもらいたい、という宿題を出した。当てた学生はなんとかシリア語で祈れたので嬉しかった。出来不出来にはばらつきが多少はあったが、みんなが楽しんでいることは明白だった。週に二度、午前9時から12時まで、4週間というのは香港の神学校よりは荷が少し軽くなった。しかし、李先生を含めて毎回中国人の学生たちと顔を付き合わせるというのは私には精神的には少なからぬ苦痛を伴った。最初の授業の時、短い自己紹介に続いて、出席者に数日前の体験を語った。香港からの飛行機が上海に近づいた時、私の席の数列前に、母親に抱かれた一歳になるかならないかの男の子の姿が目に入った。私が微笑みかけると、ニコッと微笑み返してくれたが、その瞬間、今回香港へ出発する前に自宅で読んだ中国帰還者連絡会編「完全版三光」で読んだ話が思い出されて、それ以上男の子を見ていることができなかった。戦後シベリアから中国北部の撫順と太原の戦犯収容所に移された千人余りの日本軍戦犯の一人が帰国してから語ったのであるが、彼の部隊が北支で連日のように蛮行を繰り返していた時、ある日、農家の前を通りかかり、戸を開けて見たところ、肌の白い女性が赤ん坊をあやしているのが目に入り、ムラムラと欲情が燃え上がり、中に入って女を鷲掴みにすると、赤ん坊がギャーと泣き出したので、「この餓鬼め、邪魔するな」、と言って、その子をひっつかんでそばに煮えたぎっていた釜に逆さまに投げ込んで、母親を陵辱した、というのである。
上海を離れる前日、李先生は、ご自分の母校である羅店にある中学校に案内してくださったが、その校庭の一角に負傷した飛行機の操縦士を侵入して来た日本軍からを守ろうとして倒れた中国紅十字の四人の犠牲者の紀念碑が立っていて、持ってきた花束を捧げ、そこに跪いた。この作戦の結果として、2244人もの民間人が惨殺された。陳行(チェンハン)にも連れて行っていただいたが、そこでは10903の人家が焼かれ、多数の犠牲者が出た。祈念碑には「警鐘長鳴永志不忘」と刻んであり、その碑文をゆっくりとさすり、そこに跪いた。
二年前に済南の山東大学で教えた時と同様、今回も南京大学のジェレマイア(孟振華)が講義に来てくれ、と親切に招待してくれ、一泊の予定で出かけ、「中国人の視点から見たヘブライ語学習」という題で話した。25人ほどの学生は熱心に耳を傾けてくれ、質の高い質問も出た。終ってから、東京から来ているという留学生と挨拶を交わしたが、ほかにも二人日本人学生がいる、ということだった。日本人として南京にいることをどう受け止めているか、と尋ねるべきだった、と悔やまれる。南京大学からの謝礼だと言ってジェレマイアから封筒を渡されたけど、二年前と同じく、南京虐殺記念館が生存者の生活支援をしているというその資金に寄付してもらうことにした。
上海はわずか4週間だったが、今回も厳しい過去の歴史を共に意識しつつ中国人の間に何人か新しい友人ができた。上海外大の李先生はとても親切にしてくださり、よく気がついて何くれと配慮してくださり、車であちこち連れて行ってくださり、空港までの送り迎え、北京にも同行してくださった。上海はバス、電車、地下鉄と高度に発達していて、私たち二人がその気になれば自分で動けたはずだけれど、中国語の会話がさっぱりの私たちにとって、李先生の同伴はとても有難かった。私が上海外大に来た意図もしっかりと受け止めてくださり、先生との合作(中国語で「共同事業」)を他の人にも知らせようと努めてくださり、外大新聞にかなり長い記事を投稿してくださり、2700人の人が読んだらしい、と後日知らせてくださった。また、上海で高く評価されている月刊誌の文匯報の記者に会ってくれ、とのことで、シリア語とは何か、それが中国人にどういう意味を持つかなどを尋ねられた。上海や北京など中国各地でシリア語に対する関心が高いのは、日本では景教の名で知られるが、6世紀、唐の時代にシリア教会から宣教師が中国に来たことも背景にあるのではないだろうか、と伝えた。一月にオランダの拙宅にひょっこり訪ねて来られた北京大学の林先生もとても親切に、丁寧にしてくださった。北京大学での講義の後、どうしてもまた来てもらいたいと懇願され、二年後にということでお別れした。戦時中インドネシアで日本軍の性奴隷として苦しめられたオランダ人女性たちのことを書いた本を私がオランダ語から和訳して「折られた花」と題して数年前に新教出版社から出してもらったものを中国語で出版したい、と言って昨年から連絡のあった北京の出版社の人たちとも今回会って話を詰めた。その後、拙著「私のヴィアドロローサ」も中国語で出版させてもらいたい、との連絡があった。後者は、2014年にソウルで教えた時の学生の一人が韓国語に翻訳させてもらいたい、と申し出て、今秋出版の段取りになっている。シンガポールのカラハム先生、香港のパン先生については上に述べた。
今回も、以前に知り合いになっていた何人かの中国人たちとの素晴らしい再会があった。
12年前に香港で、2年前に済南でお世話になった李先生は奥様共々済南から会いに来て下さった。10年前に私たちを招いて下さった上海の華東師範大学の張(ジャン)先生はご多用中にも拘らず何度も会いに来てくださり、食事に呼び出して下さったり、何くれとお世話くださり、日本からオランダに帰る途中上海で一泊しなければならなくなったのを知って、宿代まで肩代わりして下さった。こういった知人たちのその後の人生の進展を目撃できるのも素晴らしかった。カルメンの結婚式に招待された200人を超す客の中に、12年前にカルメンと同様に私の生徒だった黄(フアン)の顔もあったが、彼女はその後博士号を取得して、故郷に戻り上海大学で歴史を教えている。自分の講義の時間を調整して、私のシリア語の授業には毎回出席し、そのほかにも何かと親切に私たち老夫婦の世話をしてくれた。北京大学での講義には10年前私が北京大学で現代ヘブライ語を教えた時の学生の一人だった桂林出身の林先生の姿があったが、彼女は今は北京外大で現代ヘブライ語を教えておられる。2年前、山東大学でヘブライ語の授業を途中で引き継いで教えさせてもらったが、その時の姜(ジアン)振帥さんがある日まだ7ヶ月という可愛い坊やを連れて奥さんと会いに来てくださった。2年前にすっかり気に入った山東特産の緑茶を買って来て下さるよう頼んだところ、どっさり抱えて持って来てくださり、代金を払うというのに受け取ろうとされなかった。今、毎日少しずつ賞味している。昨年マニラで教えた学生の一人であるアリシャ(王颖然)はご主人のダニエルと3歳半になるという可愛い幼稚園生の息子を連れて来て会わせてくれ、上海を一望のもとに見渡せる高層ビルの最上階にあるレストランでお昼をご馳走してくれた。
もう一つ本当にびっくりの再会があった。エルサレム時代の同窓生でテルアビブ郊外のバル•イラン大学のセム語学者として世界的に高名なソコロフ教授とは手紙やメールで交流はずっとあったけど、イスラエル人の観光団の一員として来ているから会いたい、と連絡があり、正式のユダヤ教の過越の祭の食事に招待された。彼の奥さんも同席しておられたが、桂子は彼と机を並べてヘブライ語で古典ギリシャ語を一年やったことがあった。クリスチャンによって散々に痛めつけらた民族の一員である彼と、自分の前の世代がこの地の人々を散々に痛めつけたことを重く受け止めてソコロフも専門とするシリア語を日本人クリスチャンとして教えている者が上海で半世紀ぶりに再会するとはなんという不思議な巡り合わせであろう!
上海でも現地の日本人教会で三度礼拝に出席を許され、牧師一時不在で教会の議長を務めておられる福本さんのお招きで三度とも説教をさせてもらった。中国人と結婚しているという或る日本人女性が、私の説教の一つをきっかけに日中関係を考え始めた、と言ってくださった。ほかにも、この重要な問題に新たに目を開かれた、と言われた方が数人あった。
4月14日(土)上海から福岡へ飛び、翌日郷里のえびの教会に出席し、「タレントか? タラントか?」と題して説教したが、近くの国際高校に務めておられるという中国人の張(ジャン)さんも出席しておられ、戦時中のように強制的に引っ張って来られたのではないので、お話ししようと思っていたのが、礼拝後すぐ帰宅されたので、オランダに戻ってから私のアジア旅行について中国語で書かれたいくつかのものを手紙でお送りした。本当の中日友好のために微力を尽くしている戦中派の日本人が一人いることを知っていただきたかった。
郷里に滞在中、65年前に卒業した中学校から生徒たちに話していただきたい、と声がかかった。時間が15分に限られていたので、多くを語ることはできなかったが、半世紀以上海外に住んで、日本人として感じたことの一端を披露した。校長先生は私の話を面白いと思われたらしく、今度帰郷した時もまた是非お願いします、今度は50分差し上げます、と言われた。
郷里に六日滞在してから東京へ飛んだ。新宿西教会で開催される、日韓教会協議会主催の戦争体験者による第二回証言集会で話すためだった。会場は満席で、熱気にあふれ、聴衆の中には函館から駆けつけてくださった桂子の姪の姿もあった。最初に渡辺信夫先生が力強く語られたが、先生は私より一回りも先輩で海軍将校として実戦の体験もおありであるが、敗戦のとき国民学校2年だった私には「追体験」しかないのであるが、「前事不忘 後事之師」が私の演題であった。12年前に香港索償協会でもらった資料を披露したが、前述の軍用手票が20枚ぐらい、百円札、十円札、五円札、一円札、五十銭札の実部の写真が出ていて、上に「日本政府行騙大醜聞•情同強盗」と印刷してある。「情同強盗」は、強盗と同じように感じられる、という意味である。帰りの車の中で、主催者の一人で、奥様と長年日本で伝道しておられる韓国人の宣教師、河先生が「先生のお話を聴きながら、過去5週間ぐらいたまっていたモヤモヤした感情が消えて行きました」、と言われた。日韓の間の和解を願って尽力しておられるのに、日本人のクリスチャンたちや教会の態度がいまひとつ煮えきらないのに焦燥感を覚えておられたらしい。先生のお言葉を伺って少しほっとした。
何十年振りに東京の練馬バプテスト教会の日曜礼拝に参加した。学生時代ずっとお世話になった教会で、その時の牧師であった泉田先生も、半世紀ぶりに会った数名の会員とともにいらしていた。礼拝の後、海外での体験について話させてもらったが、東京オリンピックの年に思いがけなくイスラエル政府の奨学金をもらえなかったら、この教会で桂子と結婚式を挙げることになっていた。この教会は戦後始まったものであるけど、会員は、老いも若きも、1945年前に日本がやったこと、その後放置してきたことに全く無関係である、とは言えないのではないか、と申し上げた。
今回も桂子は忠実な伴侶であった。私が教える科目は彼女が飛びつきたくなるようなものではないけど、きちんと予習していたことを私は知っている。また、学生たちと彼らの先生との間の架け橋として大事な役割を果たしてくれた。私たちのアジアでのこの仕事に関心を持って見守っていてくださった方々が世界各地にあることも私たちの念頭を離れなかった。ほぼ6週間に及んだ旅を終え、病気にもならず、事故もなく4月25日予定通り我が家に無事に戻って来れた。
埴生の宿も わが宿
玉のよそい うらやまじ
のどかなりや 春のそら
花はあるじ 鳥は友
おお わが宿よ たのしとも たのもしや
村岡崇光
オランダ ウーフストへースト
2018.5.14