オランダの代表的な全国紙、日刊紙であるNRCが五月二日の論説に平成天皇についての記事を発表しました。私はしばらく前からディジタル版しか読んでいないのですが、近所のオランダ人がこれをどう思うか、とその記事を回してくれました。それに対する私の回答の和訳をここに紹介します。
記事の中にある以下の箇所に疑義を呈したい。
「周知の通り、彼は謝罪をするところまではいかなかったが、彼の父の在任中に帝国軍隊が日本帝国の名において行ったところの多くの人権侵害に対して「悔悛」の情を表明したことは評価して良い」
これは私には初耳です。いつどこで平成天皇が「悔悛」の情を表明されたのか知りたく思います。この文脈においては「悔悛」という表現は正しくない、と愚考します。オランダ語の表現に「悔悛は罪の後に来る」というのがあります。平成天皇が「私は心に痛みを覚えます」という発言を何度となくされたことは周知のところです。12年ほど前にシンガポールに短期滞在した時、現地の英字新聞に、平成天皇が公式訪問された時の記事が出ていました。晩餐会の席上で、「前の戦争中に、シンガポールの皆さんが本当に辛い思いをされたことを考えますと胸が痛みます」、と発言された、とありました。これだったら、シンガポールを公式訪問したノルウェーの大統領でも言える、人道的な同情心の表明ではないだろうか。もし陛下が「私の父の兵隊たちのおかげで。。。」とおっしゃっておられたら、現地での反響はすざましかっただろうし、そういうニュースが日本で報道されていたら、現在の日本の政治的状況は全く違ったものになっているのではなかろうか、と思います。
何年か前に平成天皇の韓国訪問が話題になていた時、当時の韓国の大統領が「ただ、心が痛みます、と言うために来られるのだったら、ご足労には及びません」、と発言されました。
NRCのこの論説委員は日本政府が外国人向けに頒布した天皇の発言の英訳を引用しているのかもしれません。敗戦70年に当たって安倍首相が行なった声明があります。時の安倍内閣の合意のもとに行われた声明でした。その中に「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきました」、とありますが、「反省」という単語が、同時に発表された駐日外国人報道関係者向けの英文にはここでオランダ人論説委員が使っている単語に相当する英語のremorseになっています。しかし、日本語の「反省」は、全国サッカー大会の決勝戦で負けたので、監督が選手全員を招集して反省会をしよう、というような時にも使われるもので、戦犯のような人道に悖る行為を自覚して改悛の情を表明する、というのとは全く違います。
2019年5月6日
2019年5月6日月曜日
2019年2月10日日曜日
平成天皇の海外訪問
先日、朝日新聞の編集委員の一人である北野氏から、昨年の10月3日から今月の4日まで、何度か朝日新聞に平成天皇の海外訪問について書かれた記事を親切に送ってもらいました。何年か前に、天皇のオランダ訪問について取材に来られた時に訪問を受けたことがあります。
その読後感を送りましたので、ここに貼り付けます。
北野さん
その読後感を送りましたので、ここに貼り付けます。
北野さん
先日ご親切にお送りくださった一連の記事を拝読しました。
極めてデリケートな問題を根気よく追求された努力を多とします。 最初のものが去年の10月3日掲載ですから、 この連載ものを朝日が掲載し続けられた、 ということには少し救われるような気がします。
北野さん自身随行されたわけではなく、関係者から直接、 間接に情報を集められたもの、と推察します。
いくつか気についたこと、気にかかることを以下に書きとめます。
10・13日の記事に、村山談話の翌日藤井、 沼田両氏が英国のテレビで、「 英国人元捕虜も対象と首相が明言した」ということですが、 この二人がそう発言したのであれば、 そう長くもない談話をきちんと読んでいなかった、ということで、 日本外交の恥です。 BBCの担当者も談話の英語版を読まなかった、ということです。
その記事の最後に駐日英国大使を務められたコータツツイさんの発言が引用されていますが、 胸にズシンと響きます。「今の天皇には戦争に直接の責任はない。しかし私の国民の間に感情のわだかまりがあるなら、国民とともに和解に取り組むことは、天皇のあるべき姿ではないか」、と言われたというのですよね。これが私にとっても最大の問題です。 もう10年以上前にシンガポールに行った時、 しばらく前に国賓として彼地を訪問された平成天皇が、 天皇のためにもうけられた晩餐会の席上で、「 戦争中にシンガポールの方の多くが大変苦しまれたことを思います と深い心の痛みを覚えます」と発言された、 ということが現地の英語の新聞記事に出ていました。 同じ姿勢はいたるところで表明されたことが、 北野さんのいくつかの記事にも出ています。私は、 苛立たしさを禁じ得ませんでした。隔靴搔痒の感を免れません。 右翼は天皇が謝罪するのは憲法違反である、 というに決まっていますが、天皇ご自身がそう思っておられて、「 戦争中にシンガポールの方の多くが私の父の兵隊たちのために大変 苦しまれたことを思いますと深い心の痛みを覚えます」 と仰っていたら、現地の反響は物凄かったでしょうし、 そういう報道が東京に伝わっていたら、 現今の日本の政治地図は全く違っているでしょうし、 敗戦後70年以上経ってもなおアジアの孤児という惨めな姿からは とっくに脱し、 安保理事会の常任理事国も何期か務めていたことでしょう。
基本的に同じことが昭和天皇についても言えます。 外国や外国人の被害者に対してのみならず、日本国民に対しても、 一度も謝られたことはないです。 2年前に専門のヘブライ語やギリシャ語を無償で教えさせてもらう ために、フィリッピンの人たちの前で話しましたが、 1973年に、 敗戦を知らずにフィリッピンのジャングルを逃げ回っていた小野田 少尉が帰国した時、かつての戦友の一人が、「小野田君、 一度皇居の庭に行ってごらん。ひょっとしたら、 散歩に出てこられた陛下にお会いできるかも」と勧めたところ、 天皇の赤子は「そんなことになったら、 陛下はどうしてよいか戸惑われるかもしれない」、 と言って断った、というのです。彼が戦友の言う通りにして、 陛下にぱったり出会い、「閣下、小野田でございます」 と切り出し、天皇が「小野田、悪かったな。赦してくれ」 と言っておられたら、平成天皇も、 一月のGlobeに書いておられる「御父の御心を」 別な意味で心とされたことでしょう。世界戦略的な視野から、 マッカーサが極東軍事裁判に昭和天皇を召喚しないことに決めたの は致命的な誤りでした。
長くなりました。
Takamitsu MURAOKA
村岡崇光
村岡崇光
2018年12月25日火曜日
アジアへ二度
アジアへ二度
ジェットエアウェイズでのニューデリー経由の長い空の旅が無事終わって、1月3日の朝、私たちは無事シンガポールのチャンギ空港に到着した。シンガポールバプテスト神学校の学事主任のフォン先生とホスト役のカラハム博士の温かい出迎えを受けて立派なアパートに連れて行ってもらった。神学校の支援者が外来の訪問者に提供してくださる施設とのことだった。
7時間の時差を処理するのは楽ではなかったが、その日はゆっくり休んで、翌日講義に臨んだ。一週間の集中講義で聖書アラム語入門で、登録している19人の学生の大多数は中国系だった。彼らは全員ヘブライ語をすでに学んでいたので、文法を概観して、すぐにダニエル書2章の講読に入った。
神学校の教職員と学生は大方新顔であったけど、嬉しい例外が二人おられた。一人は2006年に香港の中文大学で教えさせてもらった時に出会ったアリソン•ロー博士で、彼女はその後英国に留学し博士号を取得してここでカラハム博士と旧約を担当しておられる。 もう一人は新訳担当のン•ボンフイで、2009年に台北の中華福音神学院で教えさせてもらった時に出会い、そこでの学びを終えて故郷へ戻って来られたのだった。
この選択科目に学生たちが示している熱意に私は深い感銘を受けていることを彼らに語った。彼らの中の11人は単位を取るつもりで、後日筆記試験を受け、短い論文も書き、私に採点してもらうことになっていた。論文では、ダニエル書6章で、中国語その他の翻訳ではなく、原文で読まなければ分らないことを指摘するように求められた。その関連で、三年前に台北で同じようにアラム語を講じた時の体験について語った。聖書の著者は、自分が伝えようとすることを文学的にできるだけ美しい形で記そうとする努力をしている、ということの例として、漢詩の中から「洛陽女児好顔色」という七言絶句の一行を引用した。その夕方、学生の一人が私の言ったことに刺激されて書いた自作の四行から成る七言絶句をお目におかけしたい、とメールしてきた。四行を上から下に読んでみると私の名前が書いてあり、私の由来、人生観をこの短い詩で見事に表明してあって驚いた。この話を聞いていたシンガポールでの学生が感心したらしく、私のラップトップから黒板に書き写してくれた。(次頁の上の写真)。その日の夕方、今度は妻の桂子がびっくりする番になった。昼間の学生が「私は奥様のことを謳った漢詩を書いてみました」とメールしてきた。(次頁の下の写真)。今度は妻の名前は後ろから二番目の漢字を上から下に配してある。趣旨は、
「彼女は世界中で桂の香りを漂わせつつ神様にお仕えしている。
名声や富には心を奪われず、全身全霊でこのような人生を辿っている」
ということらしい。このシンガポールの女性詩人は、最後の講義の時間に、自作の漢詩を額に入れたものを持ってきて、妻に手渡してくれた。
最初の講義の冒頭に自己紹介を兼ねて、なぜ2005年に続いて再度シンガポールで教えることになったかの説明をしたが、ある日の午前中、学生の一人である郭修岩さんの通訳で、中国語で学んでいる学生のために講演をする機会も供された。
また、一夕、シンガポールバプテストコレッヂで「聖書の教える仲直り」という題で、バプテスト系の二つの神学校主催の会合でも話させてもらった。聴衆は神学校関係者だけではなかった。質疑応答の時間に、私のアジアでの無償の講義が日本の教会にどの程度の影響を及ぼしているだろうか、と尋ねられ、2003年からの私のこの活動に関する記録と思索をまとめて、2014年に日本聖書協会から出版してもらった拙著「わたしのヴィアドロローサ:『大東亜戦争』の爪痕をアジアに訪ねて」が日本のキリスト教関係の報道機関でかなり広く取り上げられた、とお答えした。この会合の時わかったのだが、前年2月15日にシンガポールの日本大使が、1942年にシンガポールを占領した日本軍に虐殺された何千人もの中国系シンガポール人の追悼式典で言われたことについて現地の新聞が報道したことに気づいた人は聴衆の中にはなかった。現地の日本大使がこの式典に列席するのは初めてで、日本の新聞がこれを大々的に報道したのは異とするに足りない。篠田大使は「深い悲しみと哀悼の意を日本人の圧倒的多数とともに共有します」と慰霊の言葉を述べた、というのであるが、現在の日本人の何パーセントがこういう虐殺があったという歴史を多少とも知っているのだろうか。「圧倒的多数」というような外交辞令を持ち出すことによって自分の資質を疑われ、誠意を疑われ、却って逆効果であることに気づかれなかったのだろうか。
神学校の総長のウ先生の招待による晩餐会の席上、同席しておられた学事主任のフォン先生は、1943年3月、そのとき83歳だったお祖母さんが、一緒にいた孫共々日本兵によってマレーシアで虐殺された、と言われたが、詳細には立ち入ろうとされなかった。
ある夕方、外で散歩していたとき、赤ん坊を抱いた母親に行き違ったが、石川逸子さんが書かれた詩の一節が頭に浮かんで母児を直視できなかった。マレーシアに侵入した日本軍がイロイロという村の住民千五百人を老人も嬰児も皆殺しにし、その後40年、村には誰一人住んでいなかった、というのである。その作戦の時、兵隊の一人が母に抱かれていた赤子を掴んで空中にほうり上げ、落ちて来るところに刀を刺し、母親の首をはねた、というのである。そこまでしなければならないのか、と疑問を呈した兵隊には、「この児たちが大きくなったら、反日として育ち、親の仇を討とうとするに決まってる」、と言われた。中国系のこの田舎の人たちには、日本軍に抵抗するのは、中国本土で同じ日本軍によって行われている残虐行為に対する気持ちの表現としては当然であった。
中国系の学生の一人であるチュア夫妻は私たちに対してとても親切で、自宅に食事に招んでくれたり、あちこち車で連れて行ってくれたりしたが、彼は日本軍がシンガポルで犯した残虐行為をなかなか認めようとしない日本政府の態度にイライラしていた。現地の学校ではこういった歴史はきちんと教えられている、とのことであった。
神学校から差し出された相当の額の謝儀はどうしても受け取るわけには行かず、好意はありがたいけど、と言って全額神学校に寄付させてもらった。
最後の授業の時、神学校の職員や学生が一人一人丁寧に、誠意を込めて、写真入りで作ってくださった長らく記憶に残るであろうノートをいただき、何人かの人からは個人的にカードを頂戴して講義を終了した。
シンガポールで過ごしたただ一度の日曜日に、私たち夫婦はシンガポール国際日本語教会の礼拝に出席し、伊藤牧師に頼まれてエレミア31:27−34から「私たちの神様は忘れっぽい神様だろうか?」と題して説教した。2005年、前任者の岡村牧師の時もこの教会の礼拝に出席した。ただの観光のためでなく、あれから13年、また同じ目的で再訪することになったのが返す返すも残念である、と申し上げた。この教会は日本のバプテスト連盟が牧師を派遣しており、その一つの大事な使命は現地のシンガポール人との和解を目指すことにある。
ある午後、伊藤先生のご案内でシンガポールの中心にある血債塔を訪ねた。1967年に完成した高さ67米の4本の塔は多民族社会のこの国の中国人、マレー人、英国人、タミール人の犠牲者を追悼するものである。犠牲者の実数は争われており四ヶ国語で簡単な説明があるが、その表現が穏やかに過ぎるような気がした。英語のものを和訳すると「日本軍がシンガポールを占領した時に殺された民間人を追悼して」とあるが、「シンガポール占領時に日本軍によって殺された云々」とできなかったのだろうか。中国や韓国の類似の場所には日本語の説明文もあるのにここにはそれがない。伊藤先生によると、日本人観光客の訪問地の一つとしてはあがっていないそうだが、先生は日本からのクリスチャンの訪問客は必ずここにお連れすることにしている、とのことだった。
シンガポールでの十日の滞在を終えて、27年ぶりのメルボルンへ感傷旅行に飛び立った。6年間会っていない長男やメルボルン大学のかつての同僚や学生たちに会うためだった。私たちが家族ごと11年間お世話になったメルボルン郊外のバプテスト教会の日曜礼拝では説教を頼まれ、創世記32章から「君の名は?」の題で話した。80年台にそこの牧師だったエドワーズ牧師の他にも何人か懐かしい人達との再会を喜んだが、東南アジアからの移民が多くなっているのが目についた。そういう一人が、祖国の歴史のことであまり自分を苦しめなくても良いのではないか、と言われた。
今年はこれまでと違って、二度続けてアジアに出ることになった。シンガポールの神学校のほかに上海外国語大学から声がかかった。三者で随分工夫しようとしたがダメだった。費用はかさむことになったけど、結局二つの学校の熱意に根負けした。
かてて加えて、もう一つの問題が持ち上がった。シンガポールの神学校で、香港から短期訪問に来ていた学者、フィリップ•パン博士と会い、上海へ行く前に香港に二、三日行くことになると私から聞いて、ぜひ私たちの恩福聖経学院にも教えに来てもらいたい、と懇願され、お引き受けする羽目になった。当初の計画では、12年前に香港で教えた時の学生の一人が結婚するので式の時にすでに他界しておられる父親の代理を務めてもらいたい、と言われていたのだった。その女学生だったカルメンはその後も私たちのアジアでの仕事に関心を持ち続け、私が教えているところへ何度か訪ねて来てくれ、今回もシンガポールで会ったのだった。
3月10日土曜の夕方遅く香港に到着、カルメンに温かく迎えられた。
翌日は香港日本基督者教会の礼拝に出席、二度続けての説教を引き受けた。二度目の時は広東語の同時通訳付きだった。創世記32章から「君の名は?」が題だったが、会衆は熱心に聞いてくださった。最後に斯波牧師がお父上の日本軍兵士としての体験を語って締めくくられたが、日本の教会の指導者の中には戦争責任の問題にはあまり関心のない人も少なくないので、嬉しかった。
その夕方、恩福聖経学院で「前事不忘 後事之師」の題で公開講演をする機会があった。神学校関係者以外にも一般の出席者も加えて200人以上が見えていた。神学校で宣教学を講じておられるエルトン•ローさんが熱を込めて日本語から広東語に通訳してくださった。あとで桂子から聞いたところでは、何人かの人が涙ぐんでおられた、という。会は予定より半時間超過し、神学校総長のパトリック•ソー博士が祈りで締めくくられたが、その中で、講演者の真摯な悔いの姿勢、理性的に、自分なりに考えようとする態度、祖国の罪責に対して自分なりの責任を取ろうとする態度、それを具体的な行動に還元しようとする生き方に学ぶよう聴衆に促された。会が終わってから、中国人女性が日英両語で書いた手紙を手渡してくれた。ホテルに戻ってから読んでみたところ、講演についての広告が目について、ネットで私のことを読んで感銘を受け、今夕のような話は初めて聞いたと、走り書きしてあった。数日後、ホテルに訪ねて来られ、日本人から改悛の言葉を聞きたくて30年待っていたこと、日本軍による占領中に祖父母は日本兵に虐殺され、資産は全部巻き上げられた、と言われたが、香港が占領された1941年より数年前に生まれた私たち夫婦二人の日本人にそういう話をするのはどんなにか辛いことだろう、と思いやられた。
翌朝、12年前と同じように、今回もカルメンに伴われて香港索償協会の事務所に向かった。戦争中日本軍政は軍用手票なるものを発行し、香港市民は一人残らず、自分の所有する香港ドルと強制的に交換させられ、その円紙幣の裏には後日しかるべき時、インフレも考慮に入れて、ドルにして返済する、と印刷されているのに、日本政府はいまだにその義務を不履行のままであり、その不正を関係方面に訴え、約束を履行してもらう運動を続けているのである。私たちを迎え入れてくださった劉文主席が自分は戦後世代だ、と自己紹介された時、12年前の主席の呉さんが、「この負債がきちんと決済されない間は、私たちの子の世代、孫の世代、曽孫の世代も要求し続ける覚悟である」、と言われたのを思い出した。
夕方には、神学校の教職員、学生を対象に「なぜ聖書を原語で読むのか?」という題で講演した。みんな熱心に耳を傾けているのが看取された。
その翌日から七十人訳についての集中講義が始まった。午後1時から6時まで、4日連続だったが、最近八十になったばかりの者にはちょっとした重荷であったが、ずっと若い25人ほどの学生たちにとってだって楽ではなかったろう。ここでも、学生たちならびに神学校の熱意に深い感銘を受けた。どこの神学校でも、七十人訳は選択科目の中でも上位にはないであろう。
一夕、パン先生に夕食に招かれて、街中の中華料理店へ繰り出した。若い客に溢れかえっていたが、女性たちがいかにも楽しそうにお喋りしているのを見て、戦争中だったら、日本人の男性が入ってくるのが目についたら、一斉に逃げ出しただろうに、と思った。
ここの神学校もかなりの額の謝儀を払いたい、と言われたけど、固辞し、神学校に寄付させてもらった。それだけでなく、神学校は、立派なホテルの部屋もあてがってくれ、ホテルから学校までのタクシー代も出してくれ、着いてすぐに小遣い銭まで手渡された。
香港最後の日のカルメンとチェングイの豊かに祝福された結婚式も終わり、父親の代理役もなんとか果たせて、日曜日には上海への機上の二人となった。
上海の浦東(プドン)国際空港にはアラビア学が専門の李先生が鶴首して私たちの到着を待っていてくださった。飛行場から目指す上海外国語大学の迎賓館に連れて行ってくださり、14階の素晴らしい部屋に落ち着いた。迎賓館は教室まで歩いて数分という便利さだった。
上海外大は欧米、極東、東南アジアの言語だけでなく、アラビア語、ヘブライ語、トルコ語など中近東の言語も教える中国でも有数の大学の一つである。李先生は私を招んで大学始まって以来初めてシリア語を教えてもらおう、とされたのであろう。ある日、ごく最近設立された上外全球文明研究所の所長だという王(ワン)先生にもお会いしたが、先生はエルサレムの私の母校でヘブライ語学で修士号を取得、ケンブリッヂでアッシリヤ学で博士号を取得された、ということだった。李先生はセム語学の分野の蔵書を増やす予算が大学図書館からおりたので、300冊ぐらい適当な本を紹介してもらいたい、と私に頼まれた。恩返しにと引き受けたはよかったが、ゆうに10時間はかかった。しかし、私の専門分野に関する知識がこのような形でアジアにおける高等教育に貢献できることはとても嬉しかった。私自身がこれまで半世紀以上関わってきた専門分野で近年アジアで関心が年毎に高まりつつあるのは驚異に値する。上海滞在中、三月末に北京大学の林博士の招待に応じてシリア語に関する講義に出かけた。それより数週間前のメールで、北京大で初めてのシリア語初級の授業に40数名の学生が現れて自分も魂消ている、と言って来られた。私の講義にも林先生が予期されたより多くの出席者があった。妻は教室の一番後ろの列に座っていたが、予定を半時間超過して90分私が話している間、船を漕いでいる人は一人もいなかった、と後で話してくれた。私のヘブライ語学と七十人訳の分野での研究業績を評価してくれた英学士院が昨年バーキット賞を私に授与してくれたことは聴衆にはあらかじめ林先生が知らせておられた。この賞が初めて授与された1925年以来の受賞者の中で私が初めてのアジア人だった。第二のアジア人受賞者がこの学生たちの中から将来出て欲しいと切望した。ライデン大学でもシリア語は定期的に教えられているけど、初級のクラスに五人以上の学生があったためしがあるだろうか? 中近東学では世界的に有名なシカゴ大学でもそう変わらないのではなかろうか。上海外大の卒業生でシカゴでセム語学の分野で博士課程に入っている学生が私の講義に参加したいと言ってわざわざ一時帰国していた。
李先生が市内の他の大学にも呼びかけてくださって十五人の学生が私の集中講義に出席した。ヘブライ語もアラビア語も知らないという学生も数人いたので、スピードを少し緩めたが、それでも二日目にはシリア語訳の聖書の拾い読みを始めた。主の祈りを学んだ時、私はこの祈りを次の授業までに暗記して、原文を見ないで教室で祈ってもらいたい、という宿題を出した。当てた学生はなんとかシリア語で祈れたので嬉しかった。出来不出来にはばらつきが多少はあったが、みんなが楽しんでいることは明白だった。週に二度、午前9時から12時まで、4週間というのは香港の神学校よりは荷が少し軽くなった。しかし、李先生を含めて毎回中国人の学生たちと顔を付き合わせるというのは私には精神的には少なからぬ苦痛を伴った。最初の授業の時、短い自己紹介に続いて、出席者に数日前の体験を語った。香港からの飛行機が上海に近づいた時、私の席の数列前に、母親に抱かれた一歳になるかならないかの男の子の姿が目に入った。私が微笑みかけると、ニコッと微笑み返してくれたが、その瞬間、今回香港へ出発する前に自宅で読んだ中国帰還者連絡会編「完全版三光」で読んだ話が思い出されて、それ以上男の子を見ていることができなかった。戦後シベリアから中国北部の撫順と太原の戦犯収容所に移された千人余りの日本軍戦犯の一人が帰国してから語ったのであるが、彼の部隊が北支で連日のように蛮行を繰り返していた時、ある日、農家の前を通りかかり、戸を開けて見たところ、肌の白い女性が赤ん坊をあやしているのが目に入り、ムラムラと欲情が燃え上がり、中に入って女を鷲掴みにすると、赤ん坊がギャーと泣き出したので、「この餓鬼め、邪魔するな」、と言って、その子をひっつかんでそばに煮えたぎっていた釜に逆さまに投げ込んで、母親を陵辱した、というのである。
上海を離れる前日、李先生は、ご自分の母校である羅店にある中学校に案内してくださったが、その校庭の一角に負傷した飛行機の操縦士を侵入して来た日本軍からを守ろうとして倒れた中国紅十字の四人の犠牲者の紀念碑が立っていて、持ってきた花束を捧げ、そこに跪いた。この作戦の結果として、2244人もの民間人が惨殺された。陳行(チェンハン)にも連れて行っていただいたが、そこでは10903の人家が焼かれ、多数の犠牲者が出た。祈念碑には「警鐘長鳴永志不忘」と刻んであり、その碑文をゆっくりとさすり、そこに跪いた。
二年前に済南の山東大学で教えた時と同様、今回も南京大学のジェレマイア(孟振華)が講義に来てくれ、と親切に招待してくれ、一泊の予定で出かけ、「中国人の視点から見たヘブライ語学習」という題で話した。25人ほどの学生は熱心に耳を傾けてくれ、質の高い質問も出た。終ってから、東京から来ているという留学生と挨拶を交わしたが、ほかにも二人日本人学生がいる、ということだった。日本人として南京にいることをどう受け止めているか、と尋ねるべきだった、と悔やまれる。南京大学からの謝礼だと言ってジェレマイアから封筒を渡されたけど、二年前と同じく、南京虐殺記念館が生存者の生活支援をしているというその資金に寄付してもらうことにした。
上海はわずか4週間だったが、今回も厳しい過去の歴史を共に意識しつつ中国人の間に何人か新しい友人ができた。上海外大の李先生はとても親切にしてくださり、よく気がついて何くれと配慮してくださり、車であちこち連れて行ってくださり、空港までの送り迎え、北京にも同行してくださった。上海はバス、電車、地下鉄と高度に発達していて、私たち二人がその気になれば自分で動けたはずだけれど、中国語の会話がさっぱりの私たちにとって、李先生の同伴はとても有難かった。私が上海外大に来た意図もしっかりと受け止めてくださり、先生との合作(中国語で「共同事業」)を他の人にも知らせようと努めてくださり、外大新聞にかなり長い記事を投稿してくださり、2700人の人が読んだらしい、と後日知らせてくださった。また、上海で高く評価されている月刊誌の文匯報の記者に会ってくれ、とのことで、シリア語とは何か、それが中国人にどういう意味を持つかなどを尋ねられた。上海や北京など中国各地でシリア語に対する関心が高いのは、日本では景教の名で知られるが、6世紀、唐の時代にシリア教会から宣教師が中国に来たことも背景にあるのではないだろうか、と伝えた。一月にオランダの拙宅にひょっこり訪ねて来られた北京大学の林先生もとても親切に、丁寧にしてくださった。北京大学での講義の後、どうしてもまた来てもらいたいと懇願され、二年後にということでお別れした。戦時中インドネシアで日本軍の性奴隷として苦しめられたオランダ人女性たちのことを書いた本を私がオランダ語から和訳して「折られた花」と題して数年前に新教出版社から出してもらったものを中国語で出版したい、と言って昨年から連絡のあった北京の出版社の人たちとも今回会って話を詰めた。その後、拙著「私のヴィアドロローサ」も中国語で出版させてもらいたい、との連絡があった。後者は、2014年にソウルで教えた時の学生の一人が韓国語に翻訳させてもらいたい、と申し出て、今秋出版の段取りになっている。シンガポールのカラハム先生、香港のパン先生については上に述べた。
今回も、以前に知り合いになっていた何人かの中国人たちとの素晴らしい再会があった。
12年前に香港で、2年前に済南でお世話になった李先生は奥様共々済南から会いに来て下さった。10年前に私たちを招いて下さった上海の華東師範大学の張(ジャン)先生はご多用中にも拘らず何度も会いに来てくださり、食事に呼び出して下さったり、何くれとお世話くださり、日本からオランダに帰る途中上海で一泊しなければならなくなったのを知って、宿代まで肩代わりして下さった。こういった知人たちのその後の人生の進展を目撃できるのも素晴らしかった。カルメンの結婚式に招待された200人を超す客の中に、12年前にカルメンと同様に私の生徒だった黄(フアン)の顔もあったが、彼女はその後博士号を取得して、故郷に戻り上海大学で歴史を教えている。自分の講義の時間を調整して、私のシリア語の授業には毎回出席し、そのほかにも何かと親切に私たち老夫婦の世話をしてくれた。北京大学での講義には10年前私が北京大学で現代ヘブライ語を教えた時の学生の一人だった桂林出身の林先生の姿があったが、彼女は今は北京外大で現代ヘブライ語を教えておられる。2年前、山東大学でヘブライ語の授業を途中で引き継いで教えさせてもらったが、その時の姜(ジアン)振帥さんがある日まだ7ヶ月という可愛い坊やを連れて奥さんと会いに来てくださった。2年前にすっかり気に入った山東特産の緑茶を買って来て下さるよう頼んだところ、どっさり抱えて持って来てくださり、代金を払うというのに受け取ろうとされなかった。今、毎日少しずつ賞味している。昨年マニラで教えた学生の一人であるアリシャ(王颖然)はご主人のダニエルと3歳半になるという可愛い幼稚園生の息子を連れて来て会わせてくれ、上海を一望のもとに見渡せる高層ビルの最上階にあるレストランでお昼をご馳走してくれた。
もう一つ本当にびっくりの再会があった。エルサレム時代の同窓生でテルアビブ郊外のバル•イラン大学のセム語学者として世界的に高名なソコロフ教授とは手紙やメールで交流はずっとあったけど、イスラエル人の観光団の一員として来ているから会いたい、と連絡があり、正式のユダヤ教の過越の祭の食事に招待された。彼の奥さんも同席しておられたが、桂子は彼と机を並べてヘブライ語で古典ギリシャ語を一年やったことがあった。クリスチャンによって散々に痛めつけらた民族の一員である彼と、自分の前の世代がこの地の人々を散々に痛めつけたことを重く受け止めてソコロフも専門とするシリア語を日本人クリスチャンとして教えている者が上海で半世紀ぶりに再会するとはなんという不思議な巡り合わせであろう!
上海でも現地の日本人教会で三度礼拝に出席を許され、牧師一時不在で教会の議長を務めておられる福本さんのお招きで三度とも説教をさせてもらった。中国人と結婚しているという或る日本人女性が、私の説教の一つをきっかけに日中関係を考え始めた、と言ってくださった。ほかにも、この重要な問題に新たに目を開かれた、と言われた方が数人あった。
4月14日(土)上海から福岡へ飛び、翌日郷里のえびの教会に出席し、「タレントか? タラントか?」と題して説教したが、近くの国際高校に務めておられるという中国人の張(ジャン)さんも出席しておられ、戦時中のように強制的に引っ張って来られたのではないので、お話ししようと思っていたのが、礼拝後すぐ帰宅されたので、オランダに戻ってから私のアジア旅行について中国語で書かれたいくつかのものを手紙でお送りした。本当の中日友好のために微力を尽くしている戦中派の日本人が一人いることを知っていただきたかった。
郷里に滞在中、65年前に卒業した中学校から生徒たちに話していただきたい、と声がかかった。時間が15分に限られていたので、多くを語ることはできなかったが、半世紀以上海外に住んで、日本人として感じたことの一端を披露した。校長先生は私の話を面白いと思われたらしく、今度帰郷した時もまた是非お願いします、今度は50分差し上げます、と言われた。
郷里に六日滞在してから東京へ飛んだ。新宿西教会で開催される、日韓教会協議会主催の戦争体験者による第二回証言集会で話すためだった。会場は満席で、熱気にあふれ、聴衆の中には函館から駆けつけてくださった桂子の姪の姿もあった。最初に渡辺信夫先生が力強く語られたが、先生は私より一回りも先輩で海軍将校として実戦の体験もおありであるが、敗戦のとき国民学校2年だった私には「追体験」しかないのであるが、「前事不忘 後事之師」が私の演題であった。12年前に香港索償協会でもらった資料を披露したが、前述の軍用手票が20枚ぐらい、百円札、十円札、五円札、一円札、五十銭札の実部の写真が出ていて、上に「日本政府行騙大醜聞•情同強盗」と印刷してある。「情同強盗」は、強盗と同じように感じられる、という意味である。帰りの車の中で、主催者の一人で、奥様と長年日本で伝道しておられる韓国人の宣教師、河先生が「先生のお話を聴きながら、過去5週間ぐらいたまっていたモヤモヤした感情が消えて行きました」、と言われた。日韓の間の和解を願って尽力しておられるのに、日本人のクリスチャンたちや教会の態度がいまひとつ煮えきらないのに焦燥感を覚えておられたらしい。先生のお言葉を伺って少しほっとした。
何十年振りに東京の練馬バプテスト教会の日曜礼拝に参加した。学生時代ずっとお世話になった教会で、その時の牧師であった泉田先生も、半世紀ぶりに会った数名の会員とともにいらしていた。礼拝の後、海外での体験について話させてもらったが、東京オリンピックの年に思いがけなくイスラエル政府の奨学金をもらえなかったら、この教会で桂子と結婚式を挙げることになっていた。この教会は戦後始まったものであるけど、会員は、老いも若きも、1945年前に日本がやったこと、その後放置してきたことに全く無関係である、とは言えないのではないか、と申し上げた。
今回も桂子は忠実な伴侶であった。私が教える科目は彼女が飛びつきたくなるようなものではないけど、きちんと予習していたことを私は知っている。また、学生たちと彼らの先生との間の架け橋として大事な役割を果たしてくれた。私たちのアジアでのこの仕事に関心を持って見守っていてくださった方々が世界各地にあることも私たちの念頭を離れなかった。ほぼ6週間に及んだ旅を終え、病気にもならず、事故もなく4月25日予定通り我が家に無事に戻って来れた。
埴生の宿も わが宿
玉のよそい うらやまじ
のどかなりや 春のそら
花はあるじ 鳥は友
おお わが宿よ たのしとも たのもしや
村岡崇光
オランダ ウーフストへースト
2018.5.14
10年してフィリッピン再訪
10年してフィリピン再訪
台北での2時間の待ち合わせを含めて15時間の空の旅も無事終わり、1月14日マニラ空港に到着すると、ミハエル•マレッサ博士が迎えに来てくれていた。彼は、既に10年以上国際的な宣教団体(OMF)の宣教師としてフィリピン聖書神学校(BSOP)で旧約聖書を講じている。彼の運転で空港から聖書翻訳者を訓練する団体の経営する宿舎に直行した。フィリピンを最初訪問した時も、彼の神学校で一週間教えさせてもらったのだが、その時は彼はたまたま休暇で祖国ドイツに戻っていた。後日彼の学生の一人から、彼がここの神学校で高く評価されているのを聞いて快哉を叫んだ。ミハエルはライデン大学で、私の指導のもとに博士号を取得したのだった。私にとっても彼は神様があらかじめフィリピンへ派遣していてくださっていたように思えた。戦後生まれのドイツ市民として私のアジアでの活動の動機、背景をよく理解できる立場にあった。ミハエルはBSOPでの二週間の私の講義だけでなく、あと二つの神学校での講義の調整を極めて能率的に行い、良い地ならしをしてくれていた。
翌日の日曜、私たち二人はミハエルからマニラ市内のレストランで美味しい昼食をふるまわれ、細君のアンケと三人の子供とも久しぶりの再会を果たした。そこから、マカティにあるマニラ日本語教会での礼拝に連れて行ってもらった。20年前に始まった教会で、フィリッピン人の牧師と結婚しておられる宣教師のゲレロ馨さんの指導のもとに二十人くらいが集っている。その教会から依頼されて、2月5日の日曜礼拝では創世記32章から説教させてもらったが、フィリピンに住む日本人が何をすることができるか、何をなすべきかを考えさせられた、と私の説教を総括してくださった。礼拝の席には、私の背景をご存知のゲレロさんからの連絡で現地の日刊日本語新聞「マニラタイムズ」の記者の姿も見えた。翌日の誌上には第一面に私の説教について「『戦争に目を閉ざすな』、アジア巡行の聖書学者が講演」の題でかなり詳しく、正確に紹介されていた。ゲレロさんからの連絡を受けて出席された人たちの中に、日本軍の性奴隷として痛めつけられたフィリッピン女性たちと定期的に会っているという日本人女性、日本軍のBC級戦犯について著書もあり、研究休暇で来ておられる広島市立大学の先生もあった。その次の日曜も説教を頼まれ、ルカ7:36−50から「言葉にならない愛」と題して話したが、国内のあちこちの道路脇に立ち並ぶ、とても人家とは呼べないような小屋にも言及したが、経済格差の厳然たる証拠であった。ルカ福音書に登場する「罪ある女」にならって、愛について語らなくとも、愛を行動に還元できるのではないのでは、というのが私の主張であった。
マニラでの最初の週はケソン市にあるアジア神学校での授業であった。旧約聖書の古いギリシャ語訳である七十人訳について集中的に教えてもらいたいという、のが私を迎えてくださったゴロスペ先生からの依頼であった。単位を必要とする学生の場合、最低教えなければならない授業時間数が政府の規定に出ているために、月曜から土曜まで毎日6時間教える羽目になった。78歳の教師には楽ではなかったが、先生二人を含む学生たちにとっても相当な負担であったろう。最初の時間に言ったのだが、聖書学の中でも特に重視されているのでもないこの分野に関する私の数冊の本を、一冊を別として他はいずれも著者30パーセント割引でも40ユーロ以上というものを合計25点も注文した彼らの熱意には圧倒された。そのなかの一冊は74ユーロもするのである。後日聞き知ったのだが、神学校を卒業して田舎の教会の牧師になった場合の月給が40ユーロぐらいだというのであるから、唖然とした。学生の中には、インドネシア人、ミャンマー人も一人いて、両人からも心のこもった感謝のメールを受け取った。
最初の時間に、私がアジア訪問の背景について語ったのを聞いた学生が、彼女の親友がフィリッピン人の「慰安婦」のための弁護士をしている、と明かしてくれた。
最終日、フィリピン聖書協会のエドガー•エボホ博士夫妻がなんの予告もなしに教室に姿を現した。エドガーは10年前、親切に、能率よく私たちの世話をしてくれたのであった。この再会に大喜びしたものの、あれから10年、同じ目的でフィリッピンを再訪しなければならない現状に私の心は沈んだ。
次の二週間はマニラから北に車で3時間余りのバギオにあるアジア太平洋神学校で過ごした。海抜1500メートルぐらいのバギオはフィリッピンの軽井沢とも言われ、裕福なフィリッピン人には人気のある避暑地である。10年前、ここでの授業の最終日に、ジープニーの小さい模型をもらい、ジープニーに乗ってまた来てください、と言われた。[ジープニーはバスとタクシーの合いの子みたいなもので、バスよりもはるかに多く、フィリッピン人にとっては必須の足であるが、これにも乗れず、旧式の人力車、自転車、歩行者もざらである。] 今回も私を招いてくださったケイ•ファウンティン先生が最初の日に挨拶に来られた時、今回は神学校がピカピカの新車のトヨタ•ジープニーを差し向けてくれて、それに乗ってマニラから来ました、と申し上げた。二週間にわたって、上級ヘブライ語を教えさせてもらったが、十六人の学生の出身地は多彩で、フィリッピン人のほかに、ミャンマー、タイ、ブータン、ネパール、中国、韓国からの留学生であった。
教室外でも職員や学生たちと交流する機会も十分にあった。ある日、私たち夫婦はミャンマーからの留学生の部屋で美味なビルマ料理をご馳走になったが、ミャンマーの主たる宗教である仏教と違って、キリスト教信仰は哲学ではなく、歴史に深く根ざしており、それもただ教会の歴史でなく、キリスト教徒であるかないかを問わず、一般の歴史もそれには関わってくるのではないか、と語った。別な日、数名の韓国人学生から食事に招ばれた時、その中の一人が、韓国、中国、日本は将来共同で東北アジアの平和、安定に大いに貢献できるのではないか、と発言したので、私はそこまで楽観的にはなれないと前置きして、91年にオーストラリアのメルボルンからオランダに転勤してきた時、国の東の方で行なわれているオランダとドイツ軍の共同演習を伝える現地の新聞記事に我が目を疑ったことを語った。東支那海で日中両国の海軍の共同演習が近い将来に行なわれようとは到底考えられない。
初級ヘブライ語を教えておられる韓国人の姜先生ご夫妻に街のレストランで昼食をご馳走になった時、私のクラスの韓国人学生の一人が、植民地支配の歴史を心から悔いている日本人に出会って非常に感動したことを私に漏らしたことをお伝えした。
日本からの宣教師としてギリシャ語を教えておられる吉原先生ご夫妻には10年前にもお会いした。今回はそのお嬢さんも同席で久しぶりに本物の日本食をご馳走になったが、両親がここの神学校の卒業生という若い日本人留学生との出会いもあった。彼女は拙著「私のヴィアドロローサ:『大東亜戦争』の爪痕をアジアに訪ねて」(東京、2014)と、私がオランダ語から和訳したハーマー著「折られた花:日本軍『慰安婦』とされたオランダ人女性たちの声」(東京、2013)を貪るように読み、神学校の礼拝堂で私が説教した時、感情をこらえようと苦闘しているのが見えた。
今回も神学校の礼拝堂での説教を依頼され、創世記32章から「君の名は?」の題で語った。中国語部門の学生のための同時通訳もあったが、礼拝後、そこに出席していたという学生が、非常に感動したので、原稿を翻訳したいから送ってもらえないだろうか、とのメールが入った。礼拝の最後にファウンティン先生が謝意を述べられ、総長のタム•ワン先生と教員数名が講壇の前で私の肩に手を置いて、私のアジアでの活動のために神の祝福を祈ってくださった。
妻とフィリッピンでの最後の二週間を過ごすことになるBSOPでは最初の週に九人の学生に上級ヘブライ語を講じた。三人のフィリッピン人のほかに、中国大陸からの留学生が二人、インド人、韓国人、日本人(!)、オランダ人(!)が一人ずつという顔ぶれであった。ある日私の79歳の誕生日となり、授業の後にみんながHappy Birthday to Youを唱和してくれ、プレゼントが手渡された。すると、突然に、オランダ人の学生とミハエルがLang zal ’ie levenと歌い出し、私はいたく感動した。[「彼が末長く生きながらえますように」を意味し、「ラングザルイレーヴェン」と発音する。] この有名なオランダの誕生日の歌で祝ってもらい、それをしかもフィリッピンでとはこはいかに! お祝いは食堂での昼食の時にも続き、インド人学生のアパートで夕方にまで及んだ。これまでの私の人生で最高の誕生日となった。純オランダ式だったら私は破産してしまいそうな豪華なお祝いであった。[オランダでは、誕生日を迎える本人がお祝いの費用は捻出する慣わしである。]
第2週目は七人の学生を対象に七十人訳の講義であった。この神学校でも礼拝説教をする機会を供せられ、リム先生の通訳で創世記32章から語った。説教の原稿にあらかじめ目を通された先生が非常に感動されたそうだ、ということをミハエルが教えてくれた。私が言わんとしたことの要点は、名前はその人のアイデンティティ、その人の過去を体現するものであり、このことは個人のみならず、集団にも妥当する、というにあった。ヤコブだけでなく、彼の子孫、ユダヤ民族の全員がぺヌエルであった出来事を何百年後まで記憶していて、動物の腿のつがいの上の腰の筋肉は食べない(創世記32:32)という歴史がそれを教えている。私が日本人として自国の歴史にどのように向き合うかを語り、ひとが自分の過去の言動を真摯に悔いているといることは、単に謝罪の言葉だけでなく、具体的な行動によって被害者にはっきり伝わると思うので毎年アジアに無償の講義に出向いているのだ、とも付言した。
他の二つの神学校でもしたように、最後の日はイスラエル民謡「ヒンネマトーヴ」をヘブライ語で唱って閉じた。歌詞は「見よ、兄弟が一緒に座しているのはなんと素晴らしく、楽しいことか」という詩篇133:1の言葉である。その日の朝の祈りの時間に、パウロが「もし君たちがキリストに属する者ならば、君たちは神に約束されたようにアブラハムの子孫なのである」(ガラテヤ3:29)に目が止まり、われわれも、この歌を兄弟同胞として歌い、交流を楽しむことができるのではないか、と一同に語った。
食堂での最後の昼食の時、年配の事務局の女性がやって来られて、「また是非いらしてください」と言われたので、「私は帰ってきます」と応じたところ、「誰がそう言ったかは先生と同輩の私は存じております」と微笑まれた。[1942年初頭フィリッピンに侵入した日本軍に抗しきれず戦略的撤退に踏み切り、同年3月20日オーストリアにたどり着いた米軍の最高司令官ダグラス•マッカーサーが言い放った “I shall return.” 彼は、米軍を指揮して1944年10月23日にレイテ島に上陸した。]
三つの神学校のいずれも、滞在中の宿、食事、車の手配も十分すぎるくらいに配慮して下さった。首都マニラから14キロほど離れているヴァレンズエラに位置するBSOPはマニラまで何度か車を出してくれた。ある週末ミハエルに伴われてランバンにある日本公園に出かけることにした。人工湖カリラヤ湖を眼下に見下ろすランバンの丘の中腹に大理石の巨大な記念碑がある。右側に「比島戦没者慰霊碑」と日本語だけで書いてある。左側に日英両語で「フィリッピン政府の協力のもと1973年日本政府建立」という告知が嵌め込んである。これでは、日本語チンプンカンの訪問者にはこの馬鹿でかい石碑がなんのためのものなのか全くわからないであろう。すぐ近くにいたフィリッピン人の警備員二人に、この慰霊碑は約50万人の日本人兵のものであることを知っているか尋ねたが、その返答はしどろもどろだった。彼らのおかげでその倍ぐらいのフィリッピン人が命を落としているんだ、と伝え、「この犠牲者たちのためには本当に、本当に申し訳ありません」と言いながら私は自分の感情を制しきれなくなって警備員の一人の腕に顔を埋めた。去年1月にここに来られた天皇は日本兵の戦死者たちに対して深い悲しみを表明されたけど、フィリッピン人たちに詫びられただろうか? 警備員は天皇訪問のことを報じた現地の新聞の切り抜きをポケットから取り出して見せてくれたが、謝罪はされなかった、と呟いた。それからしばらく後に園内で行き合った二人のフィリッピン人男性が私を見て親しげに微笑んだ。先ほどの警備員から私が見せた醜態について聞いていたのかもしれない。慰霊碑の近くで先生に引率された小学生の一団に出くわしたので、この石碑のことを生徒たちにどう説明したのか尋ねたところ、「これは日本とフィリッピン両国の友情の象徴です」という返答だった。あの50万人近くの日本兵のおかげで100万近い現地人が日本による占領時代に命を落としているんです、と言わざるをえなかった。更に言葉を継いで、「友のために命を捨てるほどの友情はありえない」と言われたイエスの言葉を引用した(ヨハネ15:13)。すると、先生は日本軍のために散々な目にあわされた祖父のことを小声で語り始めた。もう一人の先生は近くにあった鳥居の写真をパチパチ撮っていたので、これがなんなのかをご存知か尋ねたところ、「否」だったので、これは日本の神道の神社の門に立っているもので、日本の天皇は、言うなれば、神道の大祭司です、と説明してあげた。
ある夕方、BSOPが出してくれた車で、最初の週に教えさせてもらったアジア神学校へ公開講演をするために出かけた。私の前に、ゴロスペ先生が聖書における記憶の概念について話された。最近この国でも歴史修正主義の動きがあり、マルコスは独裁者ではなく、偉大な英雄であったと言い始めている、とのことであった。私の講演は今回、創世記32章を基にして何回か行った説教「君の名は?」を大幅に拡張したものだった。タイのクワイ川の岸辺に立っている記念碑にも言及した。その碑には、太平戦争中、日本軍が当時の国際法を無視して建設した415キロの泰緬鉄道で命を落とした連合軍捕虜13,000人近くの将兵の名が刻まれており、その下に、「私たちはあなたたちを赦すつもりはある。だが決して忘れはしない」と書いてある。そこに表現されている思想は聖書のそれであり、その反対に「赦して忘れよ」は信仰の甘えではないか、と述べた。聴衆の中に、「私は彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出すことはない」(エレミヤ31:34)とあるのとかみ合わないのではないか、と思っている人があることを予想して、ここで「思い出す」と訳されているヘブライ語動詞は「自分の覚えていることに応じて行動する」という意味であることを指摘した。聖書の神は認知症を患われることはなく、一時的であれ、恒久的であれ記憶喪失に陥られることはない。きちんと認められ、告白され、赦された罪のことをまたぞろ持ち出していじめられることはなさらない。しかし、歴史の事実を消したり、改訂はなさらない。罪を認め、赦され、和解するということは自分の言動に対して責任を取るということであることも述べ、前の週の土曜にランバンを訪ねたことにも触れた。1年前の正月に天皇皇后両陛下もそこを訪問された。あの大理石の慰霊碑の建設費に皇室から金一封が供されたとはどこにも書いてないことにお気づきになったであろうか、と自問した。太平洋戦争中フィリッピンで戦死した日本兵50万人余りは昭和天皇の赤子として死したのである。内外の新聞が大々的に取り上げたこのご訪問の中で、戦没者の遺族にもお会いになり、「あの時からずっと本当につらいところを通ってこられましたね」と温かいお言葉をかけられ、遺族の痛みを深く共有しておられることは明瞭であったが、「私の父のおかげで」とおっしゃったとは報道されなかった。戦後70年以上、私たち日本人の大多数はそれを問題にしないできた。フィリッピンに来ているので、元陸軍少尉小野田寛郎氏(平成26年没)のことに触れた。彼は日本の敗戦を知らず、フィリッピンの密林に潜み、29年ぶりに帰国したのであるが、帰国直後にかつての戦友が、「小野田君、一度皇居の庭に行ってみない? 朝の散歩に出ておられる陛下にお目にかかれるかもしれないよ」とすすめたが、「陛下はなんとおっしゃっていいかお困りになられるかもしれない」と言って断った、という。仮に、あの時彼が戦友の提言を容れて昭和天皇にパッタリ出会って「陛下、小野田でございます」と名乗り、天皇が「小野田。本当に悪かった。赦してくれ」とおっしゃっていたら、現在のアジアの政治状況は現状とは雲泥の差を呈し、私は定年退職して浮いた時間は100パーセント自分の学問上の趣味に費やし、毎年十分の一を神様にお返しするつもりでアジアへボランティアとして教えに出てくる必要はないだろう、と語った。ゴロスペ先生は、会場の礼拝堂が満員であるのにご満悦であった。神学校の礼拝は学生は出席を義務付けられているが、今回は出席は随意であり、卒業生や一般市民の姿もあった。
10日間の里帰りをして、3月初めにオランダに無事戻ってからフィリッピンで教えた学生たちからかなりの数のメールを受け取った。みんな口を揃えたように、私たちが恋しい、と書いているのであるが、ただの決まり文句とは読めなかった。中国本土からの留学生の一人は書いていた: 「私たちのためにあんなに時間をかけて教えてくださり本当にありがとうございました。今まで思ってもみなかったことに目が開かれました。また、先生の謙虚な姿勢、私たちに対する思いやりにも心を打たれました。神様が私たちのためにアジアへ送ってくださったマレッサ博士のような優秀な人材を育ててくださったことにも感謝します。AGST/BSOPにまた教えに来てくださる日を鶴首して待ちます。[AGST = Asia Graduate School of Theology. BSOP もこの連合体に所属する神学校のひとつ。] 二週間にわたる講義の中で先生がしてくださったヘブライ語文法の分析、七十人訳の語彙の説明が大変な祝福であったことは私だけでなく、参加者全員の一致した評価です。先生の学問的研究の足跡をはっきりと示してくださいました。私は完全に満足できました。学者として私たちと分かち合ってくださった知識はとても貴重なものですが、先生の誠実さ、親切はそれ以上に尊いものでした。先生が教えてくださった学問上の細かいことは数年後には全部は覚えていないかもしれませんが、私に教えてくだっさった先生がどういうお方であったかは一生忘れません。先生は私が親しく識り合えた最初の日本人でした。これまで私が持っていた日本人観はガラリと変わりました」。これに対する私の返信の中に、「前途遼遠の感は拭い去れないけど、どこからであれ、始めなければならない。私が達成できたことが本当に微々たるものであることは私自身が他の誰よりもよくわかっているけど、たった五つのパンと魚二匹という自分の弁当を喜んで主に差し出したところ、主イエスはそれを祝福して文字どおり何千倍にも増やしてくださったというあのガリラヤの少年の話を思い出して自分を慰めている」、と書いた。もう一人の学生からは「先生がBSOPに来てくださったことで私の家族全員がどんなに祝福されたことでしょう。先生と一緒に聖書を学び、互いの人生体験を分かち合うというこの素晴らしい時を与えてくださった神様に私どもは本当に感謝しています。家内も私も先生の教えと信仰者としての先生の姿勢に深い感銘を受け、教えられることが多々ありました。過ぐる二週間に体験したことは、今後私が韓国人として、また当地で牧師、宣教師としてどのように生きるべきかを考えていく上で重要な指針となると信じて疑いません。聖霊様のお導きにより、私も、先生のように神の国でお仕えする者となりたいと願います。… 先生と桂子さんと出会ったことで私たち両国の辛い過去の歴史に対して新しい視点が開けてきたように思います。[ここで、この学生は、日本軍に「慰安婦」として痛めつけられた婦人たちに5年前に私たちがソウルで会いに行ったときのことについて韓国のキリスト教月刊雑誌に掲載された記事を読んでの印象に言及している。] 私たち両国の間の和解と正義の問題に今後どのように具体的に取り組んでいったらよいかを教えてくださるよう神様にお祈りします」。学生たちの中の希望者には英語版「私のヴィアドロローサ」の電子版を無料で提供したのであるが、この学生もその一人で、受け取りのメールに「最後には、私たちは主イエスキリストと一緒にヴィアベアータ[ここで、この学生は、日本軍に「慰安婦」として痛めつけられた婦人たちに5年前に私たちがソウルで会いに行ったときのことについて韓国のキリスト教月刊雑誌に掲載された記事を読んでの印象に言及している。]を歩くことになると確信しています」と書いてきた。ここにその抜粋を引用したメールや、同じように真摯な、感謝にあふれた通信を読むと、ヴィアドロローサの第14番目の停留所とも言える今回のフィリッピン訪問に費やした時間と精力も報いられて余りあったように思われてならない。神様の御栄光のためにという私のささやかな奉仕をこのように素晴らしい仕方で愛でてくださったお方にはただ感謝のほかない。ご自分のヴィアドロローサの終点に到達されて主が仰せられたただの一言を謹んで使わせていただきたい:「テテレスタイ」(使命完了)。[ギリシャ語でτετέλεσται (ヨハネ19:30)]
これまでもそうであったが、今回多少とも達成されたことがあったとすれば、それはオランダだけでなく世界各地にいる多くの友人たちがこの企画の根底にある動機を心から理解してくだり、いろいろな形で援助の手を差し伸べてくださったことに負うものであることを私は信じて疑わない。この点において私を迎えてくださったフィリッピンの神学校の教職員には特別の恩義を感じている。現地の学者の中でミハエル•マレッサ博士は特記に値する。私の訪問の動機について彼が示してくれた温かい理解、彼の神学校で教えさせてもらった二週間だけでなく、他の二つの神学校とも緊密な連絡を取り、時間とエネルギを惜しみなく費やしてくれた彼の支援がなかったら、今回の訪問はただの夢物語に終わっていたことだろう。
最後になってしまったが、今回も全期間同行し、授業にもまめに出席して側面から支援してくれた妻にも負うところ大である。学生の一人は「村岡桂子さんがご一緒だったことにも感謝します。一人の偉大な学者のこれまでの歩みについて語ってくださいましたが、夫を後ろから支え、多くの犠牲を払っておられる女性。お二人との交流の時は本当に楽しいでした」と書いてくれた。別な学生は「おばあちゃん——私の胸に深く刻まれています。自分は家庭の主婦に過ぎません、と私に仰いましたが、聖書の原語には詳しい方です。本当にありがとうございました。授業の最後の日に頂いたプレゼントは大好きです」とも書いてきた。桂子はまったく初対面の人とでもすぐ打ち解けられるという素晴らしい能力を神様からいただいているようで、人間関係の構築となるとどうも不器用な夫にとってはありがたい存在である。
村岡崇光
17.3.2017
在ウーフトヘースト
オランダ
2018年8月16日木曜日
8月15日の平成天皇のお言葉
敗戦から73年目の昨日、戦没者追悼式で天皇は最後の挨拶をされました。宮内庁のサイトによると
「本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。
「本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に73年,国民のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが,苦難に満ちた往時をしのぶとき,感慨は今なお尽きることがありません。
戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ,ここに過去を顧み,深い反省とともに,今後,戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
となっています。ところが同じサイトにある英語版には「深い反省」が
'deep remorse'
となっています。「反省」という日本語は、それ自体は、倫理的、道徳的ニュアンスを伴わず、甲子園で優勝を逸したチーム全員を監督が招集して「反省会」を開いたりするときにも使います。
しかし、英語の remorse はそういうときには使えず、「悔悟」あるいは「自責」が適訳でしょう。
これは外国の反響に配慮した宮内庁による情報操作と解釈できます。こういう見え透いた情報操作は戦時中の大本営発表に「綽々たる戦果」が頻出しましたから、今に始まったことではありません。3年前の昨日、安部首相の声明にも
「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました」
というのが、公式の英語版ではまたもや deep remorse に化けて出てきました。
いやはや、なんともやりきれないです。
2018年5月26日土曜日
トランプ大統領
米大統領の偽善
最近、トランプ大統領が金委員長に手紙を出し、来月12日に開催予定の米朝巨頭会談を取りやめる、としましたが、その手紙の中で
貴委員長は貴国の核能力に言及されますが、わが国の能力はあまりにも巨大で強力なので、これを決して使用しなくて済むことをわたくしは神に祈ります。
という一節があります。
トランプ大統領が以前に、どこかで、彼の祖国が広島と長崎に原爆を投下することにした決定は過ちであり、それを悔いる、と発言したのならともかく、そうでない限り、これは神の名を濫用した、偽善としか思えません。
今日のオランダの夕刊に、今日、北朝鮮で文大統領が金委員長と会談し、二人が抱き合っている写真が出ていました。それを見ながら、私は不覚にも落涙しました。
2018年5月18日金曜日
日本の原発政策
日本の原発政策の立ち遅れ
昨日ライデン大学で河合弘之弁護士監督の「日本と再生ー光と風のギガワット作戦」の映写会に出かけた。
世界各国での状況を現地の関係者をインタビューしていた。ドイツは言うに及ばず、取り上げられたどの国に比べても日本は甚だしく立ち遅れているのがわかり、情けなかった。合衆国にすら大きく水をあけられている。こういった世界的動きは福島原発より前から始まっていたが、福島が決定的な引き金となったことは疑問の余地がない。その被害国の日本は、いまだに何千人という犠牲者が苦しんでいる時、喉元過ぎれば熱さを忘れよろしく、まるで何事もなかったように、再稼働に向かってまっしぐら。海外に原発技術輸出して金儲けまで堂々とやる厚顔無恥ぶり。「前事不忘 後事之師」はここにも妥当する。
19.5.2018
昨日ライデン大学で河合弘之弁護士監督の「日本と再生ー光と風のギガワット作戦」の映写会に出かけた。
世界各国での状況を現地の関係者をインタビューしていた。ドイツは言うに及ばず、取り上げられたどの国に比べても日本は甚だしく立ち遅れているのがわかり、情けなかった。合衆国にすら大きく水をあけられている。こういった世界的動きは福島原発より前から始まっていたが、福島が決定的な引き金となったことは疑問の余地がない。その被害国の日本は、いまだに何千人という犠牲者が苦しんでいる時、喉元過ぎれば熱さを忘れよろしく、まるで何事もなかったように、再稼働に向かってまっしぐら。海外に原発技術輸出して金儲けまで堂々とやる厚顔無恥ぶり。「前事不忘 後事之師」はここにも妥当する。
19.5.2018
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