2020年1月7日火曜日

初めてのインド

はじめてのインド

2019年11月16日、土曜日の朝5時半、ロンドン経由で11時間の空の旅が終わり、チェンナイ国際空港に無事到着した。サヴァリカンヌ・バル博士が出迎えに来てくれていたが、彼と最初に出会ったのは2年前、マニラ近郊のフィリッピン聖書神学校で教えさせてもらった時の学生の一人だった。バルはエレミア哀歌についての博士論文を書いていた。その論文が完成し、博士号を授与され、インドの母校ヒンドスタン聖書神学舎(Hindustan Bible Institute & College = HBI)に戻り、旧約聖書の講師となり、私に一度教えに来てもらいたい、と頻りに慫慂されたのだった。バルはそのための準備に奔走し、私たちの一ヶ月の滞在中も何くれとなく親切に世話をしてくれた。

インド南東海岸にあるチェンナイは戦前はマドラスの名で知られ、タミル・ナードゥ州の首都で、人口5百万近い大都市である。私たちがインドへ出発する直前の日曜日、私たちが出席するオランダの聖公会での礼拝の時、牧師から出席者に今度のインド旅行について簡潔に説明してもらえないか、と言われて私たち夫婦は、ケシの花を胸に差して、かつてのイギリスの植民地へ向かおうとしていることを話すのが、なにか神の摂理のしからしめるところのように思えた。ちょうどその日曜は、11月の第二日曜、英連邦国では、前世紀の二度の世界大戦で戦死した英連邦国の兵士や一般市民の犠牲者を毎年追悼する日にあたっていた。太平洋戦争中、日本軍の犠牲として倒れたインド人は、大英帝国の臣民だった。

チェンナイに早朝到着したおかげで毎日朝7時半から午後1時まで4時間、週5日、これから4週間の授業に対する心備へができた。バルの車で市内のYWCAまで走り、一睡し、お昼を彼の奥さんと可愛い二人の坊やと一緒にいただき、神学校の宿舎に向かった。80の坂を越えた私たちのために一年で一番涼しい季節に来れるようにしてもらいたい、という私たちのたっての願いをバルは聞き入れてくれて、11月半ばからということになったのだが、それでも日中は29度から30度で、冷房の設備のある部屋でなかったら私たちは1週間ともたなかっただろう。後でわかったのだが、神学校の学生は、親が市内に住んでいても、全員構内の寄宿舎に入ることになっており、彼らの部屋には天井に扇風機がついているだけだった。

時差ボケもなんとかおさまって、神学校の構内にある、新カルバリ教会での日曜礼拝に出席し、新学期の最初の学内の礼拝に出させてもらってから、早速授業に取り掛かった。学生はその程度によって二つのグループに分かれていて、最初のグループは程度が高い方で、15人ぐらいの出席者で、最初の2週間はバルもほんとんど毎回同席してくれた。どちらのグループでも、聖書をその原語であるヘブライ語、アラム語、ギリシャ語で読んだ場合、例えば英語訳の聖書で読んだのでは見えてこないものがあることを、旧約、新約の中からいくつか具体的な箇所を読みながら検討しよう、というのであったが、これは、今年いのちのことば社から出版してもらった「聖書を原語で読んでみてはじめてわかること」の趣旨にほぼ沿った内容であった。第一のグループでは、それに加えて、聖書のアラム語の文法を4年前に出版してもらった私の入門書を使いながら学ぶことも加わった。学生は全員拙著を買っていた。7掛けの著者割引でも日本円で1.600円、床屋に行った時の散髪料金が日本円で180円というこの国では、小銭ではない。このことからだけでも、学生たちの熱意が十分にうかがわれる。

私が教えさせてもらったものは必修科目で、創立以来67年のこの神学校の歴史の中で聖書アラム語の授業は今回が初めてであった。前世紀前半に日本帝国主義の犠牲となって、いまだにその戦争責任の問題の処理が日本によって真摯に処理されないままになっているアジア諸国に2003年、オランダのライデン大学を定年退職して以来、毎年出向いて私の専門科目を教えさせてもらっている時の私の主義で、謝礼は一切いただかないことにしているので、今回も1ルピーも受け取らず、私たち二人の往復の航空券も自前であった。しかし、私たち二人をまるまる一月、冷房付きの宿舎の部屋に無料で泊めてくれ、そこの食堂で毎日、美味なインド料理を三食ご馳走してくれるのは神学校の予算には結構ひびいたのではないか、と推測する。こういったところから、神学校が私が教える科目の重要性を高く評価していたことが読み取れる。私の教えようとすることが学生にとって朝飯前の易しい内容のものではないであろうことは百も承知していたので、最初の週に、桂子に前に来てもらって、書家として名の通っていた義父の娘として、旧約聖書の中から「泣き泣き種を蒔く者は歓喜の声をあげて刈り入れする」(詩篇126:5)を達筆のヘブライ語で黒板に書いてもらった。2週間目の授業が終わりに近づいた時、聖書を原語で読むことによって、聖書理解に深みが加わり、翻訳だけで読んでいたのでは気づかないような大事なことが少なくないことが分かっただろうか、と尋ねたところ、「先生、確かにそうだ、と分かりました」、と全員が声を大にして返答した。授業中も、学生たちの目が輝き、首を縦に振っているのに気づいたことが少なくなかった。学生の中には、私に対して口頭で、あるいは桂子にフェイスブックで、聖書原語の研究に一生従事してきた専門家から教えてもらえたことをとても喜んでいる、と伝えてくれた。さらに一歩踏み込んで、学問上の知識を得られただけでなく、私の生き方、インドに教えに来てくれたその動機に目を開かれた、と言ってくれた学生もいた。このことは、バルや神学校のグプタ総長をはじめとして、何人かの職員からも私に伝えられた。

ここで、私の授業でどういうことを扱ったのかを一つの具体例を引いて紹介したい。ルカ7:36−50に登場するいかがわしい女性がパリサイ派のシモンのところでキリストが食事をしておられるところに忍び込んだ時の話をギリシャ語原文で読んだのだが、38節でキリストの足のことが3度も出ていることを指摘した。2度目と3度目は代名詞を使うこともできたはずであるのに、当時の慣習に従って、横になって食事をしておられるキリストの背後に立った彼女は「彼の足」に泥がいっぱいついているのに気づき、「彼の足」に雨のように涙を流し続け、綺麗に拭き続け、「彼の足」に激しく口づけし続け、高価な香油を流し続けた、というのである。私たちの感覚からすると、聖書の物語は時として言葉を節約しすぎているような印象を受けることがあるから、ここでの繰り返しは意図的、と思われる。それだけでなく、訪問客に挨拶がわりに接吻するというのは聖書の世界でも、欧米でも極めて自然であるが、足に接吻というのは尋常とは思えない。賓客もこれが普通ではない、と思われたらしく、自分が入ってきたときには通り一遍の接吻すらしてくれなかったシモンに向かって、その女の方に目を向けながら、自分が部屋に入った瞬間から彼女は自分の足に接吻することをやめなかった、と指摘し、「私の足に」を3度も繰り返された。インドで教えているために、あるところで読んだ話を紹介したい、という誘惑に勝てなかった。救世軍の創立者であるウィリアム・ブースの伝記に登場するエリザベス・ギーキーという見目麗しい、若い、スコットランド人の女性にまつわる話である。彼女はインドの片田舎、チェンナイからさほど遠くないナーゲルコイルという村で伝道していたのだが、一生懸命何年も努力してきたのに、これといった成果も上がらず、落ち込んでいた。ある日のこと、いい年格好の現地の男が辺り構わわずウンウン唸りながら彼女のところに担ぎ込まれてきた。見てみると、一方の脚にとてつもなく大きい棘が刺さっていて、抜けないというのだった。彼女には救急箱ぐらいはあっても、そういう場合に専門医が使う鉗子(カンシ)は持っていなかった。すると、彼女はやおら、自分の見事な歯で棘をガブッと噛んで引き抜いたのである。翌日、男は痛みも引き、家族や近所の人たちに伴われてお礼を言いにやって来た。それが契機で、インドの階級社会の最下層に位置する、非賎民の村から次々と入信して、洗礼を受ける者が出て来た。彼女の説教は依然としてわからないところが少なくなかったけれど、彼らにとっては、白人の美女が有色人種の自分たちの中の男の身体の一番きたないところに彼女の身体の一番綺麗なところをあてて助けてくれたその行動の方が大事だったのである。

チェンナイ入りして最初の月曜の夕方、「2019年文化行事」と題する神学校での催しに参加した。英語だけでなく、現地のいろいろな言葉での歌や、ダンス、短い劇、ゲームと盛りだくさんで、前面の画面に28個の手を描いて「キリストにあっては一つ」と出て来たので、有名なイスラエル民謡を桂子と二人でヘブライ語で歌わせてもらうことにした。歌詞は、詩篇133:1「見よ、兄弟が一緒に座っているのはなんと素晴らしく、楽しいことだろう」をそのまま引用したもので、これまで、私の授業の締めくくりに学生たちと一緒にヘブライ語で歌ってきたものだが、今回はその冒頭に歌うことになった。歌い終わってから、数字の28はヘブライ語のアルファベットで二字で書くことができ、そう書いた単語は「力」を意味する、一致、これ力なり、というわけである、と説明させてもらった。

二つのグループのどちらでも、最初の授業の時、私たちの今回のインドを訪問の動機を説明させてもらった。同じことは、神学校の礼拝で頼まれた最初の説教の時にも、また、校内の教会の礼拝の席上でもさせてもらった。私たち夫婦は現代における印日関係の中の極めて暗い部分を深く意識していることを伝えた。1942−43年に日本軍が敷設した悪名高い泰緬鉄道に関連して、何万人というインド人、主としてタミル人が強制的に使役され、筆舌に尽くしがたい状況のもとで膨大な数の死者が出たこと、彼らが銃撃の訓練の標的にされたり、まだ生きているのに殺されてその肉を日本兵が食べたりしたこともあった。英国人の戦争捕虜でこの地獄を辛うじて生き延びたエリック・ロウマックスの書いた「鉄道人」という本のなかに、ある時日本人が相当数のタミル人労働者を工事現場に連行して来たが、彼らは畜生以下の扱いを受け、虐待され、餓死させられた。ある時、彼らの宿舎にコレラが発生した。これを処理するのに日本軍が取った対策は、患者を外に連れ出して一斉に射殺するという風変わりなやり方だった、と書いてある。神学校は、わたしたちを近所の二つの高校に連れて行って、若い世代のインド人に話す場を設けてくれたが、彼らの70年前の先祖たちが見舞われたこの残虐な仕打ちにも触れた。

チェンナイでの最後の日、バルは私たちを市内観光に連れ出してくれた。私は、市内に歴史博物館があったら行ってみたい、と思って、前日ネットで探してみた。一つだけ可能性のある所のサイトを調べてみたところ、ギリシャ、ラテンの古典時代に関する展示物で、世界的にも有名なものがあることはわかったが、インド自体の現代史に関するものは皆無で、がっかりした。自国の市民が日本軍によって不当に受けた被害に対する無関心はかなり一般的のように見受けられた。バルが、ごく最近州政府が発行した高校の歴史教科書がネットで閲覧できると教えてくれたので、かなり厚い教科書に目を通してみたが、戦時中の日本軍による加害行為については何も出ておらず、唖然とした。この被害者たちは、日本政府と日本の皇室からだけではなく、自国政府からも忘れられたままになっているわけである。チェンナイにある日本国総領事館のサイトで「二國関係」の項を開いてみると、日印関係は1952年に締結された平和条約を嚆矢としていた。HBIに課せられているもっとも重要な使命の一つは、正義と慈愛の神についての教えを国内にあまねく届けることである、と理解されているのだが、私見によれば、この使命は、過去の卒業生、将来の卒業生が、このような犠牲者とその子孫に寄り添い、この辛い歴史を故意に忘れるのでなく、それに勇気を持って直面することによって達成されるのではなかろうか。このような歴史を背景に、風変わりな日本人老夫婦がインドを訪ねて来たと知ったら、キリストの福音に対する彼らの好奇心が多少は掻き立てられるかもしれない。

今回の交流は知的な、学問上の分野に限定されてはいなかった。私たちは人間として、クリスチャンとして接し合った。この辛い歴史にも関わらず、学生たちや神学校の職員たちが心底からの友情を示してくれていることに私たち夫婦が気づいたのは何度とあった。宿舎の部屋はしばしば蟻の大群と蚊に襲われた。アジアのどこでもそうであったが、今回も桂子は彼らの格好の標的とされた。首のあたりや、腕のあちこちに刺された跡が残っていて、授業中もしょっちゅう掻いているのに気づいた学生たちが、いろいろな民間療法を考え出して、手助けしてくれ、職員たちからも、気にかけてもらった。ある朝、早く、いつものように構内を散歩していた時、桂子は地面に落ちていた硬い木の実に足を取られて転び、一方の脚に見た目にも痛ましい怪我をした時もあの手この手で支援してもらった。また、授業が終わると、学生の一人が毎回私の重たい本とラップトップをリュックにきちんと詰めて、宿舎の部屋まで運んでくれた。最後の夕方にはバルが宿舎の部屋に来てくれ、彼が帰ると、バルの助手として旧約聖書を教えていて、私の授業に熱心に参加したパウジックとジアンがやって来て、一時間近くじっくりと交流を楽しんだ。二人とも私たちが来てくれたことに改めて感謝の意を伝えてくれた。

二つのグループのどちらの授業でも、最後には、前述のヘブライ語の民謡を歌い、写真を撮り、私たち夫婦にはどちらも、インドの伝統的な衣装を贈られた。滞在も終わりに近づいた時の神学校での礼拝の席上でも、神学校から同じような贈呈があって恐縮した。

2017年に、今回のような訪問の可能性について、バルに間に立ってもらって神学校の指導陣と交渉した時、この訪問の目的と、その根底にある動機について合意に達することができたが、今回、バル、学生たち、また神学校の職員たちとのいろいろな場での交流を通して、この合意が真剣に受け止められていることが理解できた。私ども夫婦は、前世紀の半ばに、日本軍によって無数のインド人に対して加えられた、絶対に正当化できない加害行為、残虐行為の歴史を真剣に受け止め、ささやかながら自責の念の表現として日本人クリスチャンとしてここに来ているのだった。神学校のグプタ総長は私宛のメールのに、「わたしたちの主イエスキリストの十字架の模範を示してくださり有難うございました。先生はキリストのように身を低くし、祖国に代わってキリストの愛を私たちに対して実践してくださいました。これは、わたしたちの主を模範として示してくださった大事な姿勢でした。神が先生を祝福してくださり、わたしたちの国民が先生の模範とわたしたちのための奉仕を忘れることがありませんように。先生がまた来てくだされるように神様が力を与えてくださることを望んでやみません。またいらしていただいて、わたしたちを支援してくださるように私どもの学校の門はいつも開いていることをお忘れにならないでください」、とあった。

ある日の午後、町に出て、大通りから引っ込んだところを歩いていたら、向こうからかなり高齢と見受けられる男性がびっこを引きながら歩い来るのに出会った。互いに近寄った時、相手は立ち止まってしばらく私を厳しい眼差しで睨んだ。日本兵による残虐行為の犠牲者だったのだろうか?

今朝の静思の時に読んだイザヤ書55章の11節の言葉が私の胸に強く響いた:

「私の口から出る私の言葉もこれと同じ。ちゃんとした結果が出ないままで私のところに戻って来ることはない。私の望むところを果たし、私が託した使命を必ず成し遂げる」

これまで16年にわたってアジアへ毎年出向いた時いつもそうであったが、今回も、わたしたちのささやかな試みに対してオランダのみならず、世界各地の多くの友人、知人が深い関心をもって見守ってくださり、側面から支援してくださったことに私たちは深甚の謝意を覚える。それなくして私どもがここまでこれたとは到底思えない。私たち日本人とアジアの同胞たちの間に本当の調和と一致を達成できるために、初老の私どもがささやかな努力ができるようにさせてくださった神様の御慈悲にはただ感謝のほかない。

村岡崇光
オランダ、ウーフストへースト

2019・12・28